広瀬 武夫
ひろせ たけお(Hirose Takeo)
| 生没年 | 1868-07-16 〜 1904-03-27 |
|---|---|
| 時代 | 明治 |
| 分野 | 軍人 |
| 墓所区画 | 1種イ21号9側 |
| タグ | 日露戦争 / 海軍中佐 / 軍神 / 大分県竹田 |
「軍神」と讃えられた海軍中佐
広瀬武夫は、日露戦争・旅順港閉塞作戦で戦死した海軍士官である。明治期から戦前にかけての日本において、彼は「軍神」として最も広く名を知られた軍人の一人だった。
戦死後ただちに少佐から中佐へ進級し、文部省唱歌『広瀬中佐』(1912 年)が小学校で長く歌い継がれた。郷里・大分県竹田市には広瀬神社が建立され、戦前の修身教育では「部下を見捨てなかった武士道の体現者」として教科書に大書された。終戦により国家による軍神化は終わったが、彼が部下を捜すために船底を三度往復した行動の記録自体は、軍国主義から離れた現代の視点から読み返しても、軍人としての行動の極限を示すものとして語り継がれている。
もう一つ、広瀬を異彩のある人物にしているのは、駐露武官として 5 年間ロシアに暮らし、ロシア海軍を内側から研究し、ロシアの貴族社会と深く交わり、ロシア海軍将校アリアジン少将の娘・アリアズナと相思相愛だったという経歴である。日露開戦時、彼は誰よりも「敵を知る」立場にあった軍人だった。
ロシアと恋人、そして開戦
慶応 4 年(1868 年)、豊後国岡藩(現・大分県竹田市)に岡藩士の次男として生まれる。海軍兵学校第 15 期。柔道の達人としても知られ、海軍兵学校・海軍大学校時代から鍛錬を続けた質実剛健な人物として記録されている。
明治 30 年(1897 年)から 5 年間、ロシア帝国に駐在武官として滞在。ペテルブルクでロシア海軍の戦力分析を本国に伝える一方、ロシア語・ロシア文化に精通し、貴族社会とも交流を持った。この間、ロシア海軍将校アリアジン少将の娘アリアズナと相思相愛となる。結婚も視野に入っていたとされるが、両国の関係悪化と開戦の足音の中で、二人は別れざるを得なかった。明治 35 年(1902 年)、広瀬は帰国。それから 2 年後、日本はロシアと戦争に入った。
旅順港閉塞作戦 — 自沈で港を塞ぐ
明治 37 年(1904 年)2 月の日露開戦。日本海軍最大の戦略課題は、旅順港に閉じこもるロシア太平洋艦隊をいかに無力化するかだった。彼らが日本本土と朝鮮半島の輸送路を脅かす限り、陸軍は満洲に渡れない。連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、旅順港の狭い港口に老朽船を沈めて出口を塞ぐ「閉塞作戦」を立案した。
第一次閉塞(2 月 24 日)、第二次閉塞(3 月 27 日)、第三次閉塞(5 月 2 日)。いずれも夜間に老朽船を港口まで突入させ、ロシア艦隊・砲台の砲火を浴びながら自沈させる、ほぼ生還を期待できない作戦である。広瀬は第一次で報国丸、第二次で福井丸の指揮官に志願した。
杉野はいずこ — 福井丸の夜
明治 37 年(1904 年)3 月 27 日夜、第二次閉塞作戦。福井丸を旅順港口まで突入させた広瀬は、爆薬の点火を確認し、乗員を救命艇に移して退却するはずだった。だが点呼の結果、部下の杉野孫七兵曹長一人が船内で行方不明と判明する。広瀬は救命艇を待たせ、燃え盛る福井丸の船内を捜索した。
「杉野はいずこ、杉野はいずこ」 — 文部省唱歌に歌われた一節は、生存者の証言として記録に残されている。広瀬は船底まで三度往復したが、ついに杉野を発見できなかった。最後にやむなく救命艇に移った直後、ロシア軍の砲弾が直撃。広瀬は頭部を撃ち抜かれ、戦死した。享年 36。発見されたのは、ボートに残った血と肉片だけだったと伝わる。
杉野兵曹長の遺体もついに見つかっていない。彼を捜して死んだ広瀬と、捜された杉野 — 二人の物語は、戦前日本人の精神教育を象徴する寓話となった。
青山霊園に眠る
広瀬武夫の墓は、青山霊園 1種イ21号9側。郷里の大分県竹田市にも墓があり(分骨)、広瀬神社・広瀬武夫記念館とともに今も訪れる人が絶えない。
彼の墓所を訪れるとき、教科書で習った「軍神」という言葉と、ペテルブルクで恋人と別れて帰国した若き武官という二つの像が、同じ一人の人物に重なる。戦争という抽象が、一人の人間として手触りを持つ場所である。