松岡 洋右 (1880-1946)の肖像
松岡 洋右の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

松岡 洋右

まつおか ようすけ

Matsuoka Yosuke

国際連盟脱退時の首席全権、第二次近衛内閣の外相として日独伊三国同盟・日ソ中立条約を主導した山口出身の外交官。

生没年
出身地
山口県熊毛郡室津村(現・山口県光市)
死没地
東京
時代
昭和
役職
外務大臣
出身校
オレゴン州立大学(現・オレゴン大学とは別組織)
所属
立憲政友会
区画
1種イ3号1側
タグ
国際連盟脱退 / 日独伊三国同盟 / 満鉄総裁 / 外務大臣

ジュネーブから日本を去った男

松岡洋右は、戦前日本の進路を決定的に変えた外交官・政治家である。国際連盟脱退(1933 年)時の首席全権としてジュネーブを去り、第二次近衛文麿内閣の外相として日独伊三国同盟(1940 年 9 月)・日ソ中立条約(1941 年 4 月)を相次いで主導した。

国際連盟特別総会(1933 年 2 月 24 日)でリットン報告書(満洲国不承認案)が賛成 42・反対 1(日本)・棄権 1 で採択された後、松岡は議場で「我が代表団は、本日ジュネーブを去ります」と宣言して退場した。この場面はニュース映画で世界に流れ、戦前日本が国際協調から軍国主義へと急速に転落していく分岐点として歴史に刻まれた。1933 年 3 月 27 日、日本政府は正式に国際連盟脱退を通告。日本は、第一次世界大戦後の国際秩序から自ら降りた。

その後、満鉄総裁(1935-1937 年)を経て、昭和 15 年(1940 年)7 月、第二次近衛内閣の外務大臣に就任。同年 9 月、ベルリンで日独伊三国同盟を調印。翌昭和 16 年(1941 年)4 月、モスクワで日ソ中立条約を調印。「枢軸三国 + ソ連」という大連合で米英に対抗する構想だった。

ところがその 2 か月後の 6 月 22 日、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻(独ソ戦勃発)。松岡が組み立てた外交設計は崩れた。対米強硬論を譲らない松岡を排除するため、近衛首相は内閣を総辞職して、松岡を外した第三次近衛内閣を組閣(1941 年 7 月)。それから 5 か月後の 12 月、日本は真珠湾を攻撃した。

戦後、A 級戦犯容疑者として東京裁判で起訴されたが、結核の悪化により公判中の昭和 21 年(1946 年)6 月 27 日に病死。享年 66。

松岡の評価は分裂している。戦前は日本国民の英雄、戦後は破滅外交の象徴。だが彼が見抜いていた「米国との衝突の不可避」「ソ連との一時的中立化の必要性」という戦略認識自体は、現代の歴史研究では一定の合理性を持っていたとも評価される。問題は、彼の構想を支える同盟相手のドイツが、わずか 2 か月でその前提を裏切ったことにあった。

オレゴンで育った外交官

明治 13 年(1880 年)3 月 4 日、山口県熊毛郡室津村(現・光市)に生まれる。13 歳で叔父を頼って渡米し、米国オレゴン州ポートランドに居住。メソジスト派の教会で受洗し、エルディソン家に寄宿しながらオレゴン州立大学(当時、現在のオレゴン大学とは別組織)法学部を卒業した。

異郷で苦学した経験は松岡の人格に深い影を落とした。一方で英語力は当時の日本人外交官として群を抜き、米国社会への理解も実感を伴っていた。「アメリカを最もよく知る日本人外交官」と評された松岡が、最終的に対米強硬論者になっていく屈折は、彼の経歴と切り離せない。

明治 35 年(1902 年)に帰国、明治 37 年(1904 年)に外務省に入省。日露戦争・第一次世界大戦の戦間期、ロシア・中国・米国などの公使館・領事館勤務を経て、1919 年のパリ講和会議には西園寺公望全権大使の随員として参加した。

満鉄、そしてジュネーブ

1921 年(大正 10 年)、松岡は外務省を退官して南満洲鉄道(満鉄)に転じた。理事・副総裁を歴任し、1930 年(昭和 5 年)に立憲政友会から衆議院議員に当選。1933 年(昭和 8 年)、国際連盟特別総会の首席全権に任命された。

リットン調査団報告書は、満洲事変が日本の自衛行為ではなく軍事侵略であると認定し、満洲国を承認しないとの方針を採択した。日本側に与えられた選択肢は、報告書を受諾して連盟内に留まるか、拒否して脱退するか — 松岡は当時すでに国内世論・軍部の硬化を読み取り、「脱退やむなし」の判断を持ってジュネーブに向かったとされる。

1933 年 2 月 24 日、議場で報告書採択を確認した松岡は、用意していた演説原稿を読み上げて議場を去った。「我が代表団は、本日ジュネーブを去ります」 — この一節は新聞・ラジオ・ニュース映画で日本国民に届けられ、松岡は一夜にして「列強に屈しない英雄」として帰国した。日比谷で歓迎大群衆が松岡を出迎えた。

歴史的には、この脱退が満洲国承認の固定化と日本の国際的孤立の決定打となり、戦争への道を準備した。松岡個人の決断というより、当時の政府・軍部・世論の合意の代行だったが、その記念碑的場面に立った人物として、松岡の名は連盟脱退と不可分に結びついている。

三国同盟、独ソ戦、そして失脚

1940 年(昭和 15 年)7 月、第二次近衛文麿内閣の外務大臣に就任。9 月 27 日、ベルリンで日独伊三国同盟を調印。「枢軸 + アジア」の構図で米国を牽制する構想だった。続いて翌 1941 年(昭和 16 年)3 月から 4 月、欧州歴訪に出てモスクワで日ソ中立条約を調印。スターリンと抱擁を交わしてシベリア鉄道で帰国した松岡は、絶頂期にあった。

しかし 1941 年 6 月 22 日、ドイツがソ連に侵攻(独ソ戦勃発)。松岡の構想 — ソ連との中立を保ちつつ独伊と組んで米英に対抗する設計図 — は崩壊した。松岡は対ソ攻撃論(独と共にソ連を叩く)に転じたが、近衛首相と陸海軍はこれを退けた。7 月、近衛は内閣を総辞職して松岡を外した第三次近衛内閣を組閣。松岡は政界の表舞台から去った。

東京裁判、そして病死

敗戦後、松岡は A 級戦犯容疑者として起訴された。すでに重い肺結核を患っており、東京・渋谷の自宅から日々巣鴨拘置所へ通った公判は途中で中断。昭和 21 年(1946 年)6 月 27 日、結核により病死。享年 66。

公判中の死により、判決を受けないまま生涯を終えた。

血族の著名人

松岡洋右の家系は、戦後日本最大の政治家系・岸-佐藤-安倍家へと繋がる。

戦前の松岡洋右、戦後の岸・佐藤・安倍 — 三代にわたる総理大臣級の政治家を輩出した、近代日本最大の政治家系の一つである。

逸話・エピソード

「我が代表団は、本日ジュネーブを去ります」 — 18 分の演説

1933 年 2 月 24 日の国際連盟特別総会で松岡が読み上げた退場演説は、英語で約 18 分。冷静な口調で日本側の立場を述べた後、最後の一節「The Japanese Government … now finds itself compelled to conclude that … no further co-operation」を読み終えると、書類を手に静かに議場を後にした。退場の瞬間、議場は一時静まり返ったが、松岡が背中で扉を抜けるまで誰も声を発しなかったと当時の新聞は報じている。場面はパテ・ニュース等によって世界に映像配信され、戦間期の象徴的シーンとなった。

スターリンとの抱擁 — モスクワ駅頭

1941 年 4 月、日ソ中立条約を調印した松岡が帰国の途につく日、モスクワ・ヤロスラフスキー駅にスターリン本人が異例の見送りに姿を現した。スターリンは松岡を抱き寄せ、「あなたはアジア人だ、私もアジア人だ」と語ったと伝わる。スターリンが外国の閣僚を駅頭まで見送ったのはこの一度きりで、欧米の外交史家からも「20 世紀外交史で最も奇妙な抱擁」として記録されている。その 2 か月後、ドイツがソ連に侵攻して松岡の構想は崩壊する。

ヒトラーの前で英語を使った日本人

1941 年 3 月のベルリン訪問で松岡はヒトラーと会談したが、通訳を介さず英語で直接話そうとした。ヒトラーは英語を解さなかったため通訳を要したが、リッベントロップ外相との会談では松岡が流暢な英語で論陣を張り、ナチス側を驚かせた。米国で苦学した経験で身につけた英語が、最大の敵国の言葉として枢軸国首脳の前で使われた皮肉な場面である。

青山霊園に眠る

松岡洋右の墓は、青山霊園 1種イ3号1側。戦前期日本外交の最後の主役の一人が、明治・大正期の外交官たちと同じ霊園内で眠っている。

墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

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