大久保 利通 (1830-1878)の肖像
明治初期の大久保利通(1878 年以前) Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

大久保 利通

おおくぼ としみち

Okubo Toshimichi

明治維新三傑の一人。初代内務卿として近代日本の基礎を築いた薩摩出身の政治家。

生没年
出身地
薩摩国鹿児島城下加治屋町(現・鹿児島県鹿児島市)
死没地
東京・紀尾井坂(暗殺)
時代
江戸・明治
役職
政治家
爵位
贈右大臣・贈正二位
区画
1種イ2号15側
タグ
明治維新 / 薩摩藩 / 内務省

近代日本を設計した男

大久保利通は、西郷隆盛・木戸孝允とともに「明治維新の三傑」に数えられる、近代日本最大の政治家のひとりである。薩摩藩(現在の鹿児島県)の下級藩士の家に生まれながら、幕末は薩長同盟と王政復古のクーデターを実務で動かして 260 年続いた徳川幕府を終わらせ、明治新政府では初代内務卿として、廃藩置県後の地方制度・地租改正・殖産興業・警察制度を一手に設計した。

日本の中央省庁・都道府県制度・警察組織・近代産業政策 — 現代まで続くこれらの骨格は、ほとんどが大久保の手で設計されたものか、彼が作った内務省を起点に派生したものである。戦後 GHQ によって解体された内務省は、現在の総務省・警察庁・厚生労働省・国土交通省などに分割継承されており、ひとりの政治家が作った官庁としては前例のない巨大さだった。司馬遼太郎は『翔ぶが如く』で大久保を「明治という時代そのものを設計した男」と評し、現代の歴史学者の多くも、近代国家としての日本を最も具体的に形にした人物として大久保の名を挙げる。

その手法は強引で、敵も多かった。盟友・西郷を西南戦争で失い、自身も翌年、紀尾井坂で不平士族に襲われて命を落とした。享年 47。維新を最後まで走り抜けた一人だが、自然死では終われなかった政治家でもある。

友との別れ — 西郷隆盛との決裂

大久保と西郷隆盛は、鹿児島・加治屋町で幼少から机を並べた幼馴染だった。藩主・島津斉彬に共に見出され、幕末の政局を二人三脚で潜り抜けた。その二人が決定的に道を分かったのが、明治6年(1873年)10月の征韓論政変である。

朝鮮への使節派遣を主張した西郷に対し、岩倉使節団から欧米視察を終えて帰国したばかりの大久保は、内治優先を譲らず、これを退けた。西郷、板垣退助、後藤象二郎副島種臣、江藤新平 — 参議の半数が辞表を出して下野し、新政府の権力構造が一変した瞬間だった。

四年後の明治10年(1877年)、西南戦争で西郷は鹿児島・城山に自刃する。訃報を受けた大久保が涙を流したことは、伊藤博文ら同時代人の回想に残されている。

国家を設計するという仕事

岩倉使節団(明治4-6年)で1年10か月にわたり欧米を視察した大久保を最も動かしたのは、プロイセン宰相ビスマルクとの会見だったとされる。「弱小国が独立を保つには、自ら力をつけるほかない」という現実主義の論理は、彼自身が同行者宛ての書簡で繰り返し触れている。

帰国後に創設した内務省は、地方行政・警察・殖産興業を一手に握る巨大官庁だった。自ら初代内務卿として、地租改正で安定財源を確保し、官営模範工場を各地に設置し、士族の特権を次々と解体していく。「中央が地方を作り変える」というこの強引な手法は当然のように反発を呼び、佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争と、不平士族の蜂起が相次いだ。それでも大久保は手を緩めなかった。

紀尾井坂の朝 — 暗殺の日

明治11年(1878年)5月14日朝、大久保は赤坂仮皇居へ出仕するため馬車に乗り、紀尾井坂を下りていた。馬車が清水谷にさしかかったとき、石川県士族・島田一郎を首魁とする6人の不平士族が斬りかかった。御者・中村太郎は即死、大久保は車外に引きずり出されて頭部を斬られ、絶命した。享年47。

襲撃者たちはそのまま赤坂仮皇居に出頭し、所持していた斬奸状を提出した。そこには「有司専制」を糾弾する文言が並んでいた。前年の西郷の死から、わずか八か月後のことである。維新を主導した三傑のうち、木戸孝允は前年に病死、西郷は自刃、そして大久保は暗殺 — 明治11年までに三人とも世を去った。

血族の著名人

大久保家・牧野家・吉田家・麻生家にまたがる、近代日本最大の政治家系の起点がこの大久保利通である。

明治維新の三傑から戦後の総理大臣・現代の政治家まで、5 世代以上にわたる人脈を、ここから辿ることができる。

逸話・エピソード

自費で官庁経費を立て替えた清廉

大久保は内務卿という巨大権力を握りながら、私財を蓄えることに無関心だった。死後、家族に残されたのは現金よりも借金の方が多かったと伝わる。殖産興業のために自費で官庁経費を立て替えていたためで、遺族が借金を引き継いだ。同時代の薩長閥の中で、これほど蓄財に無頓着な政府高官は珍しかった。

紀尾井坂、馬車に残された血染めの懐紙

紀尾井坂で襲撃された日、大久保の馬車の中には、その日の会議で読み上げる予定だった意見書が残されていた。「殖産興業によって民の暮らしを安定させる」という趣旨の書類で、暗殺現場で血に染まったまま発見された。冷徹な専制者と呼ばれた政治家が、最期に懐に入れていたのが民政の意見書だった事実は、伊藤博文ら同志を動揺させた。

「明治十一年で終わる」

岩倉使節団から戻った後、大久保は周囲に「自分の仕事は明治十年、十一年あたりまでで一区切りつくだろう」と漏らしていた。地租改正・地方制度・警察制度といった国家の骨格設計を 10 年で終える設計図が頭の中にあったとされる。実際には明治 11 年 5 月に紀尾井坂で凶刃に倒れ、彼の言葉どおりの年に生涯を閉じた。

青山霊園に眠る

大久保の墓は、青山霊園 1種イ2号15側にある。墓標には「贈正二位大久保利通遺骸」と刻まれ、墓所内には「大久保公神道碑」が建つ。葬儀は明治 11 年(1878 年)5 月 17 日、青山霊園で神葬式として執り行われた。襲撃時に殉死した御者・中村太郎の遺骸が、大久保のすぐそばに葬られている。

同じ「1種イ2号」の区画には、後の世代の文人 — 斎藤茂吉志賀直哉が眠る。維新を駆け抜けた政治家と、近代文学を切り拓いた歌人・小説家が、同じ一画に並んでいる。

暗殺の地・紀尾井町清水谷(現在の清水谷公園)には、明治21年(1888年)に同志らが建てた「贈右大臣大久保公哀悼碑」が今も残る。福島県郡山市には、安積疏水開削の恩人として大久保を祀る「大久保神社」もある。大久保利通という人物を訪ねるなら、墓・追悼碑・神社の三つを巡ってみる価値がある。

墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

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