植木 枝盛
うえき えもり(Ueki Emori)
| 生没年 | 1857-02-14 〜 1892-01-23 |
|---|---|
| 時代 | 明治 |
| 分野 | 政治家 |
| 墓所区画 | 1種イ11号12側 |
| タグ | 自由民権運動 / 東洋大日本国国憲按 / 立志社 / 土佐藩 |
戦後憲法を先取りした、明治の急進民権思想家
植木枝盛は、自由民権運動を代表する土佐出身の思想家・政治家である。明治 13 年(1880 年)に起草した私擬憲法草案『東洋大日本国国憲按』(とうようだいにっぽんこくこっけんあん)は、同時代の他の私擬憲法と比較しても突出して急進的で、抵抗権・革命権・連邦制・一院制・人民主権・男女平等選挙権・思想信条の自由を盛り込んだ、20 世紀の人権思想を先取りする内容だった。
明治日本では結局、より穏健な大日本帝国憲法(1889 年)が制定され、植木の草案は採用されなかった。だが昭和 21 年(1946 年)、敗戦後の憲法制定議論において、鈴木安蔵らの憲法研究会が植木の『東洋大日本国国憲按』を参照して「憲法草案要綱」を作成し、それが GHQ 草案の重要な参考資料となった。戦後の日本国憲法 — 主権在民・基本的人権の尊重 — は、植木枝盛の 65 年前の草案を遠い源流に持つ。
明治期日本に「主権は国民にあり、政府が国民の自由を奪うなら、国民は政府に抵抗する権利を持つ」と明文化した思想家がいた事実そのものが、近代日本史で過小評価されている点である。植木は『国憲按』第 70 条で「日本人民ハ法律以外ニ於テ何等ノ自由権利ヲ犯サレザル可シ」、第 72 条で「政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハザルコトヲ得」、第 73 条で「政府官吏圧制ヲ為ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得」、第 64 条で「日本人民ハ自由ニ集会スルノ権アリ」と明記した。これは大日本帝国憲法はもとより、現代の世界各国の憲法と比較しても先進的な内容である。
著書『民権自由論』(1879 年)はベストセラーとなり、自由民権運動の啓蒙書として全国で読まれた。「鳥が空を飛ぶように、魚が水を泳ぐように、人間も自由を求めるのは天の与えた性である」 — 簡潔で力強い文体は、明治の若い世代を魅了した。
そして明治 25 年(1892 年)1 月 23 日、急性腸カタルにより死去。享年 34。本格的な立法活動には至らなかったが、その思想は半世紀を超えて、戦後憲法へとつながっていく。
土佐藩士の長男から、福澤・板垣の影響下へ
安政 4 年(1857 年)、土佐国高知城下(現・高知市)に土佐藩士・植木直枝の長男として生まれる。明治 6 年(1873 年)に上京し、開成学校に進学するも翌年退学。明治 8 年(1875 年)、福澤諭吉の慶應義塾に短期間学んだ後、明治 9 年(1876 年)に郷里に戻って板垣退助主宰の立志社に参加した。
立志社は土佐の自由民権運動の中核組織で、植木はその理論的支柱となる。「自由民権」という用語の普及、啓蒙書の執筆、新聞論説 — 植木は若くして自由民権運動の中心人物の一人になった。
『民権自由論』 — 自由を平易に説く
明治 12 年(1879 年)、植木は啓蒙書『民権自由論』を刊行。「鳥が空を飛ぶように、魚が水を泳ぐように、人間も自由を求めるのは天の与えた性である」 — このような平易な比喩を多用し、漢学素養のない一般読者にも自由民権思想を伝える、当時最も読みやすい民権書だった。
ベストセラーとなり、農村青年から地方の小学校教師まで広く読まれ、自由民権運動の裾野を一気に広げた。福澤諭吉の『学問のすゝめ』『文明論之概略』が知的エリート層向けだったのに対し、植木の本は地方の若者を運動に動員する直接の媒体となった。
『東洋大日本国国憲按』 — 戦後憲法を先取り
明治 13 年(1880 年)、植木は立志社の機関誌『土陽新聞』に「日本国国憲案」(後に『東洋大日本国国憲按』と称される)を発表した。
当時、政府が憲法制定を約束した(明治十四年の政変・1881 年の国会開設の詔)前後、民間でも多数の私擬憲法草案が作成されていた。福澤門下・交詢社の『私擬憲法案』、土佐立志社の『日本憲法見込案』、千葉卓三郎の『五日市憲法』など。植木の『国憲按』はそれらの中で最も急進的だった。
主な特徴:
- 人民主権: 主権は国民にあると明記
- 抵抗権・革命権: 政府が憲法に違反したとき、国民はこれを排斥する権利を持つ(第 72 条、第 73 条)
- 連邦制: 各府県を「州」とし、強い地方自治を認める
- 一院制議会: 貴族院を持たない
- 男女平等選挙権: 男女ともに参政権を持つ
- 思想信条の自由: 第 49 条「日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス」
20 世紀の人権思想・連邦制・男女平等選挙権を、明治 13 年の時点で日本人が起草していた事実は、世界の憲法史でも特筆すべき出来事である。
植木は同時代の運動の中で「過激派」と見なされ、福澤諭吉・板垣退助系のより穏健な民権思想家とは距離があった。彼の草案がそのまま政府の検討対象になることはなく、明治 22 年(1889 年)に制定された大日本帝国憲法は、欽定憲法・天皇主権・限定的人権という、植木の構想とは正反対の方向で結実した。
衆議院議員、そして急死
明治 14 年(1881 年)の自由党結党に参加し、新聞『高知新聞』『土陽新聞』『自由新聞』などに健筆を振るう。明治 23 年(1890 年)の第 1 回衆議院議員総選挙で高知県より立憲自由党公認で当選。議会開設後も理想主義的な立場から地租軽減・徴兵免除年限短縮・大日本帝国憲法の自由主義的運用を主張した。
しかし明治 25 年(1892 年)1 月 23 日、急性腸カタル(別説では結核)により急死。享年 34。本格的な立法活動には至らなかった。
戦後憲法、そして「日本国憲法 = 植木の思想」
植木の早世により、彼の名は明治後期から大正・昭和初期にかけて、自由民権運動の歴史の中で語られる程度の存在になっていた。
しかし昭和 20 年(1945 年)の敗戦後、憲法制定議論の中で、憲法研究家・鈴木安蔵を中心とする憲法研究会が、明治の私擬憲法草案を再検討した。鈴木が特に重視したのが、植木枝盛の『東洋大日本国国憲按』だった。
憲法研究会が昭和 20 年 12 月に発表した「憲法草案要綱」は、植木の『国憲按』の人民主権・基本的人権の思想を直接受け継ぐ内容だった。GHQ 民政局はこの草案要綱を高く評価し、自らの GHQ 草案(マッカーサー草案)の重要な参考資料の一つとした。GHQ 草案は日本政府との交渉を経て、現行の日本国憲法(1946 年 11 月公布、1947 年 5 月施行)となった。
現行の日本国憲法 — 主権在民・基本的人権・平和主義 — の遠い源流に、明治 13 年の植木枝盛の草案がある。「植木が早世しなければ、戦前日本の憲政はもっと違うものになっていたかもしれない」 — 戦後の憲法学者・思想史家が繰り返し論じてきた仮想である。
青山霊園に眠る
植木枝盛の墓は、青山霊園 1種イ11号12側。郷里の高知市には植木枝盛生誕地碑があり、自由民権記念館(高知市桟橋通)には自筆草稿・著書・関連資料が所蔵されている。
明治・戦後・現代を貫く「民主主義の系譜」を辿るとき、青山霊園のこの墓所と高知の自由民権記念館は、その出発点として訪れるべき場所である。