山本 権兵衛
やまもと ごんべえ
Yamamoto Gonbee
第16・22代内閣総理大臣。日本海軍の制度を一手に作り上げた薩摩出身の海軍大将。
日本海軍と東郷平八郎を作った男
山本権兵衛は、第 16 代・第 22 代内閣総理大臣にして海軍大将。日本海軍の制度・組織・人事を一手に作り上げた、明治・大正期日本の最も影響力ある海軍出身政治家である。
その最大の業績は、日本海軍を世界第三位の海軍に育てたことである。海軍大臣として明治 31 年(1898 年)から長く海相を務め、六六艦隊計画(戦艦 6 隻・装甲巡洋艦 6 隻)を立案・実現するとともに、日露戦争(1904-1905 年)の準備と戦時運用を統括した。日本海海戦(1905 年)で世界を驚かせたロシア・バルチック艦隊の完全撃破は、山本が築いた海軍体制があってのものだった。
そしてもう一つ、歴史に残る人事判断がある。日露戦争前夜、連合艦隊司令長官の人選で山本は、東郷平八郎を抜擢した。当時の海軍内で東郷は順番でいけば最有力候補ではなかった。明治天皇に理由を問われた山本は「東郷ならば運がいい」と答えたと伝わる。この一見不合理な人事が、日本海海戦の勝利を生んだ — 戦前日本で繰り返し語られた、山本の知見の深さを示す逸話である。
第一次内閣(1913-1914 年)では文官任用令改正で政党人の高級官僚への就任を認め、政党政治への扉を開いた。第二次内閣(1923 年)では関東大震災直後に後藤新平を内務大臣兼帝都復興院総裁に起用し、現在の東京の幹線道路・公園の骨格を作る復興計画を実行に移した。一方、内閣の短命さも特徴的で、第一次内閣はシーメンス事件(1914 年、海軍高官の収賄事件)で総辞職、第二次内閣は虎ノ門事件(1923 年 12 月、難波大助による摂政宮裕仁親王 = 後の昭和天皇の狙撃未遂)の責任を取って総辞職した。
戦前日本の海軍と政党政治の両方を、その制度設計の段階で支えた人物 — それが山本権兵衛である。昭和 8 年(1933 年)12 月 8 日に死去。享年 81。
(死去日が「12 月 8 日」 — 8 年後の昭和 16 年/1941 年 12 月 8 日に真珠湾攻撃が起きた日と同じというのは、偶然の一致ではあるが、海軍の制度設計者の命日と、海軍が始めた最後の戦争の開戦日が重なるという、歴史の数字の不思議さの一つである。)
薩摩から海軍兵学寮へ
嘉永 5 年(1852 年)、薩摩国鹿児島城下に薩摩藩士の六男として生まれる。家格は低く、戊辰戦争では薩摩藩兵として従軍した。
明治 3 年(1870 年)、海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学。海軍は明治新政府で最も新しい制度の一つで、薩摩出身者が中心となって作り上げていた。山本は同郷の先輩・西郷従道(西郷隆盛の弟)の引き立てで頭角を現していく。
卒業後は欧米諸国の海軍を視察して制度・装備に通じ、海軍の近代化の中核を担う実務官僚として頭角を現した。
海相時代 — 六六艦隊と東郷抜擢
明治 24 年(1891 年)、海軍大臣官房主事として海軍内部の人事・組織改革を断行。日本海軍の組織体系は、ほぼこの時期に山本の手で確立された。明治 31 年(1898 年)から、第二次伊藤博文内閣・第二次山県有朋内閣・第四次伊藤内閣・第一次桂太郎内閣にわたって、長く海軍大臣を務める。
明治 30 年代後半、ロシアとの対立が深まる中、山本は六六艦隊計画(戦艦 6 隻・装甲巡洋艦 6 隻)を推進した。財政負担は莫大だったが、対露戦争の準備として、ほぼすべての主力艦が日露戦争に間に合った。
日露開戦の前夜、明治 36 年(1903 年)、連合艦隊司令長官の人選で山本は東郷平八郎を抜擢する。海軍内では序列としては東郷は最有力候補ではなく、より上位の人事もありえた。だが山本は東郷を選び、明治天皇から「なぜ東郷か」と問われた際に「東郷ならば運がいい」と答えたと伝わる(出典は複数の同時代回想)。理屈ではなく勘で選ぶ重要人事を、トップが断行した稀有な例である。
結果として東郷は、日本海海戦(1905 年 5 月)でバルチック艦隊を完全に撃滅した。「東郷ならば運がいい」 — この言葉は、日本史で最も成功した人事判断の根拠として、戦前から戦後まで語り継がれている。
第一次内閣 — シーメンス事件
大正 2 年(1913 年)、大正政変で桂太郎内閣が倒れた後、第 16 代内閣総理大臣に就任。文官任用令を改正して、政党人が高級官僚に就任できる道を開いた。政党政治への扉を本格的に開く制度改革で、加藤高明・原敬らの後の政党内閣の前提を作った。
しかし大正 3 年(1914 年)、シーメンス事件(ドイツの軍需企業シーメンスから日本海軍高官への贈賄事件)が発覚。山本自身は関与していなかったが、海軍出身の首相としての責任を問われ、内閣は総辞職した。
第二次内閣 — 関東大震災直後の登板
大正 12 年(1923 年)9 月 1 日、関東大震災勃発。9 月 2 日、加藤友三郎首相(8 月 24 日に死去)の後継として、山本に再度組閣命令が下った。震災翌日の組閣という、近代日本史上最も厳しい状況での首相就任である。
山本はただちに後藤新平を内務大臣兼帝都復興院総裁に起用し、震災復興を委ねた。後藤の「大風呂敷」計画は議会で大幅に削減されたものの、それでも昭和通り・隅田川六大橋・大公園など、現代東京の骨格となるインフラはこの内閣の決定によって作られた。
しかし大正 12 年(1923 年)12 月 27 日、虎ノ門事件が発生する。難波大助(山口県出身、当時 24 歳)が、虎ノ門の街路で議会開院式に向かう摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)の車両に、近距離からステッキ式銃を発射。弾丸は外れ、皇太子は無事だったが、警備の脇に座っていた東宮侍従長らが軽傷を負った。
山本は事件の責任を取って総辞職を申し出、翌大正 13 年(1924 年)1 月 7 日、内閣は総辞職した。以降、山本は政界の表舞台から退いた。
静かな最期
昭和 8 年(1933 年)12 月 8 日、東京で死去。享年 81。日本海軍を世界第三位に育て、政党政治への扉を開き、関東大震災後の東京を後藤新平に託した男の長い人生が、ここで閉じた。
8 年後の昭和 16 年(1941 年)12 月 8 日、彼が育てた日本海軍は真珠湾を攻撃する。
血族の著名人
山本家は薩摩の海軍人脈の中核を担い、海軍大将を複数輩出した「海軍一族」である。同時に松方正義家とも姻戚関係にあり、明治の元勲同士が血で結ばれている。
- 妻・登喜子 — 山本との恋愛結婚で結ばれた愛妻として知られる
- 長男・山本 清 — 海軍中佐
- 長女・いね の夫・財部 彪 — 海軍大将、海軍大臣。山本の女婿として海軍要職を歴任
- 次女・すゑ の夫・山路 一善 — 海軍中将
- 五女・登美 の夫・松方 乙彦 — 松方正義の息子。松方家との姻戚関係を確立
- 甥・山本 英輔 — 海軍大将。連合艦隊司令長官などを歴任
- 弟・太田 盛実 — 海軍少将
逸話・エピソード
妻・登喜子との恋愛結婚
山本は薩摩出身ながら、当時としては珍しい恋愛結婚で登喜子を妻に迎えた。登喜子は元は新橋の芸者で、山本が一目惚れして身請けし正妻に据えたと伝わる。家柄を重んじる薩摩武士の習わしを破る選択で、当初は同郷の元勲たちからも眉をひそめられたが、山本は終生変わらず登喜子を寵愛した。後年、山本邸を訪れた西郷従道は「権兵衛は妻のためなら何でもする」と笑ったと伝わる。
「東郷ならば運がいい」の続き
東郷平八郎の連合艦隊司令長官抜擢を明治天皇に説明した際、山本は「運の良い男です」と答えた後、もう一言付け加えたという。「そして、運の悪い時こそ動じない男です」 — 同時代の海軍関係者の回想に残る一節で、単なる縁起担ぎではなく、東郷の人物観察に裏打ちされた人事判断だったことを示す逸話である。
関東大震災翌日の組閣
大正 12 年 9 月 2 日、関東大震災翌日の組閣命令を受けた山本は、燃え続ける東京の市街を望む赤坂の自宅で、ロウソクの灯りを頼りに閣僚名簿を書いたと伝わる。「この国難に応じられる男は後藤新平しかおらぬ」と、まず後藤の名を内務大臣兼帝都復興院総裁に据えた。震災翌日の暗闇の中で書かれたこの人事が、現代東京の骨格を決めることになる。
青山霊園に眠る
山本権兵衛の墓は、青山霊園 1種イ9号26側。同じ青山霊園には、薩摩同郷の元勲・大久保利通、第二次内閣で大仕事を任せた後藤新平、彼が抜擢した東郷平八郎を支えた連合艦隊参謀長・加藤友三郎、海軍出身の総理経験者の系譜が点在している。
明治国家を支えた薩摩系人脈、そして近代日本海軍の指導者の系譜を、青山霊園の墓所群が無言で語っている。
墓所の位置
関与した事件
- 1894/8/1 日清戦争開戦 清国に対して宣戦布告、日清戦争が始まる。参謀本部次長・川上操六が大本営作戦立案の中心を担う。日本の近代戦争の幕開け。
- 1904/2/10 日露戦争開戦 日本が露国に宣戦布告、日露戦争が始まる(2 月 8 日仁川沖・旅順港攻撃後)。海軍大臣・山本権兵衛が事前に連合艦隊体制を整備していた。
- 1904/8/10 黄海海戦(日露戦争) 旅順港外で東郷平八郎率いる連合艦隊がロシア太平洋艦隊と交戦。ロシア司令官ヴィトゲフトを戦死させ、旅順艦隊の脱出を阻止、日本海海戦への布石を作った。
- 1905/5/27 日本海海戦 東郷平八郎率いる連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を対馬沖で撃破。参謀長・加藤友三郎が「T 字戦法」の運用を補佐、日露戦争の勝利を決定づけた。
- 1914/1/23 シーメンス事件 ドイツのシーメンス社が日本海軍高官に賄賂を渡していたことが暴露された海軍最大の汚職事件。第一次山本権兵衛内閣が責任を取って総辞職、八代六郎を海相とする大隈重信内閣に交代し、海軍人事の刷新が断行された。
- 1923/9/1 関東大震災 相模湾を震源とする M7.9 の大地震。死者・行方不明者 10 万人超。後藤新平が帝都復興院総裁として近代東京の都市計画を主導した。
- 1923/12/27 虎ノ門事件 摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が議会開院式に向かう途中、虎ノ門で無政府主義者・難波大助に狙撃される。山本権兵衛内閣は警備責任を取り総辞職した。






