山本 権兵衛

やまもと ごんべえ(Yamamoto Gonbee)

山本 権兵衛の肖像
山本 権兵衛の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
生没年1852-11-26 〜 1933-12-08
時代明治・大正
分野政治家
墓所区画1種イ9号26側
タグ内閣総理大臣 / 海軍大将 / 薩摩藩 / 帝都復興

日本海軍と東郷平八郎を作った男

山本権兵衛は、第 16 代・第 22 代内閣総理大臣にして海軍大将。日本海軍の制度・組織・人事を一手に作り上げた、明治・大正期日本の最も影響力ある海軍出身政治家である。

その最大の業績は、日本海軍を世界第三位の海軍に育てたことである。海軍大臣として明治 31 年(1898 年)から長く海相を務め、六六艦隊計画(戦艦 6 隻・装甲巡洋艦 6 隻)を立案・実現するとともに、日露戦争(1904-1905 年)の準備と戦時運用を統括した。日本海海戦(1905 年)で世界を驚かせたロシア・バルチック艦隊の完全撃破は、山本が築いた海軍体制があってのものだった。

そしてもう一つ、歴史に残る人事判断がある。日露戦争前夜、連合艦隊司令長官の人選で山本は、東郷平八郎を抜擢した。当時の海軍内で東郷は順番でいけば最有力候補ではなかった。明治天皇に理由を問われた山本は「東郷ならば運がいい」と答えたと伝わる。この一見不合理な人事が、日本海海戦の勝利を生んだ — 戦前日本で繰り返し語られた、山本の知見の深さを示す逸話である。

第一次内閣(1913-1914 年)では文官任用令改正で政党人の高級官僚への就任を認め、政党政治への扉を開いた。第二次内閣(1923 年)では関東大震災直後に後藤新平を内務大臣兼帝都復興院総裁に起用し、現在の東京の幹線道路・公園の骨格を作る復興計画を実行に移した。一方、内閣の短命さも特徴的で、第一次内閣はシーメンス事件(1914 年、海軍高官の収賄事件)で総辞職、第二次内閣は虎ノ門事件(1923 年 12 月、難波大助による摂政宮裕仁親王 = 後の昭和天皇の狙撃未遂)の責任を取って総辞職した。

戦前日本の海軍と政党政治の両方を、その制度設計の段階で支えた人物 — それが山本権兵衛である。昭和 8 年(1933 年)12 月 8 日に死去。享年 81。

(死去日が「12 月 8 日」 — 8 年後の昭和 16 年/1941 年 12 月 8 日に真珠湾攻撃が起きた日と同じというのは、偶然の一致ではあるが、海軍の制度設計者の命日と、海軍が始めた最後の戦争の開戦日が重なるという、歴史の数字の不思議さの一つである。)

薩摩から海軍兵学寮へ

嘉永 5 年(1852 年)、薩摩国鹿児島城下に薩摩藩士の六男として生まれる。家格は低く、戊辰戦争では薩摩藩兵として従軍した。

明治 3 年(1870 年)、海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学。海軍は明治新政府で最も新しい制度の一つで、薩摩出身者が中心となって作り上げていた。山本は同郷の先輩・西郷従道(西郷隆盛の弟)の引き立てで頭角を現していく。

卒業後は欧米諸国の海軍を視察して制度・装備に通じ、海軍の近代化の中核を担う実務官僚として頭角を現した。

海相時代 — 六六艦隊と東郷抜擢

明治 24 年(1891 年)、海軍大臣官房主事として海軍内部の人事・組織改革を断行。日本海軍の組織体系は、ほぼこの時期に山本の手で確立された。明治 31 年(1898 年)から、第二次伊藤博文内閣・第二次山県有朋内閣・第四次伊藤内閣・第一次桂太郎内閣にわたって、長く海軍大臣を務める。

明治 30 年代後半、ロシアとの対立が深まる中、山本は六六艦隊計画(戦艦 6 隻・装甲巡洋艦 6 隻)を推進した。財政負担は莫大だったが、対露戦争の準備として、ほぼすべての主力艦が日露戦争に間に合った。

日露開戦の前夜、明治 36 年(1903 年)、連合艦隊司令長官の人選で山本は東郷平八郎を抜擢する。海軍内では序列としては東郷は最有力候補ではなく、より上位の人事もありえた。だが山本は東郷を選び、明治天皇から「なぜ東郷か」と問われた際に「東郷ならば運がいい」と答えたと伝わる(出典は複数の同時代回想)。理屈ではなく勘で選ぶ重要人事を、トップが断行した稀有な例である。

結果として東郷は、日本海海戦(1905 年 5 月)でバルチック艦隊を完全に撃滅した。「東郷ならば運がいい」 — この言葉は、日本史で最も成功した人事判断の根拠として、戦前から戦後まで語り継がれている。

第一次内閣 — シーメンス事件

大正 2 年(1913 年)、大正政変で桂太郎内閣が倒れた後、第 16 代内閣総理大臣に就任。文官任用令を改正して、政党人が高級官僚に就任できる道を開いた。政党政治への扉を本格的に開く制度改革で、加藤高明・原敬らの後の政党内閣の前提を作った。

しかし大正 3 年(1914 年)、シーメンス事件(ドイツの軍需企業シーメンスから日本海軍高官への贈賄事件)が発覚。山本自身は関与していなかったが、海軍出身の首相としての責任を問われ、内閣は総辞職した。

第二次内閣 — 関東大震災直後の登板

大正 12 年(1923 年)9 月 1 日、関東大震災勃発。9 月 2 日、加藤友三郎首相(8 月 24 日に死去)の後継として、山本に再度組閣命令が下った。震災翌日の組閣という、近代日本史上最も厳しい状況での首相就任である。

山本はただちに後藤新平を内務大臣兼帝都復興院総裁に起用し、震災復興を委ねた。後藤の「大風呂敷」計画は議会で大幅に削減されたものの、それでも昭和通り・隅田川六大橋・大公園など、現代東京の骨格となるインフラはこの内閣の決定によって作られた。

しかし大正 12 年(1923 年)12 月 27 日、虎ノ門事件が発生する。難波大助(山口県出身、当時 24 歳)が、虎ノ門の街路で議会開院式に向かう摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)の車両に、近距離からステッキ式銃を発射。弾丸は外れ、皇太子は無事だったが、警備の脇に座っていた東宮侍従長らが軽傷を負った。

山本は事件の責任を取って総辞職を申し出、翌大正 13 年(1924 年)1 月 7 日、内閣は総辞職した。以降、山本は政界の表舞台から退いた。

静かな最期

昭和 8 年(1933 年)12 月 8 日、東京で死去。享年 81。日本海軍を世界第三位に育て、政党政治への扉を開き、関東大震災後の東京を後藤新平に託した男の長い人生が、ここで閉じた。

8 年後の昭和 16 年(1941 年)12 月 8 日、彼が育てた日本海軍は真珠湾を攻撃する。

青山霊園に眠る

山本権兵衛の墓は、青山霊園 1種イ9号26側。同じ青山霊園には、薩摩同郷の元勲・大久保利通、第二次内閣で大仕事を任せた後藤新平、彼が抜擢した東郷平八郎を支えた連合艦隊参謀長・加藤友三郎、海軍出身の総理経験者の系譜が点在している。

明治国家を支えた薩摩系人脈、そして近代日本海軍の指導者の系譜を、青山霊園の墓所群が無言で語っている。

墓所の位置

参考資料

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