秋山 好古
あきやま よしふる(Akiyama Yoshifuru)
| 生没年 | 1859-02-09 〜 1930-11-04 |
|---|---|
| 時代 | 明治 |
| 分野 | 軍人 |
| 墓所区画 | 1種イ19号2側 |
| タグ | 日露戦争 / 陸軍大将 / 日本騎兵の父 / 坂の上の雲 |
世界最強の騎兵を破った男
秋山好古は、「日本騎兵の父」と称される陸軍大将である。明治期、世界最強と恐れられたロシア帝国のコサック騎兵 — それまで近代戦で正面から打ち破られた例のなかった精鋭部隊を、日露戦争(1904-1905 年)で初めて押し止めたのが、秋山率いる日本騎兵旅団だった。
愛媛・松山藩の貧しい下級武士の家に生まれ、家計のために一度は教師となったが、陸軍士官学校に転じてフランスに留学。サンシール陸軍士官学校とソミュール騎兵学校で学んだ秋山は、馬の質も騎手の経験も欧州に遠く及ばない日本騎兵が、コサックに対抗する道を真剣に模索した。その答えが、騎兵単独で勝負せず機関銃・砲兵・歩兵を組み合わせる「連合戦闘」という戦術思想であり、これは後の機械化部隊運用の先駆けとも評価される。
弟は連合艦隊参謀として日本海海戦の作戦を立案した秋山真之。司馬遼太郎『坂の上の雲』(1968-1972 年)で兄弟そろって中心人物に据えられ、明治日本が世界の一等国に駆け上がる物語の象徴となった。退役後は郷里の松山に戻り、北予中学校(現・松山北高校)の校長として後進を育てた最期の選択も、その人物像を語る上で外せない一面である。
フランス留学と「コサックに勝つ」という生涯の目標
明治 20 年(1887 年)、秋山はフランスへ渡る。サンシール陸軍士官学校とソミュール騎兵学校で当時欧州最高峰の騎兵戦術を学んだが、彼が目を背けられなかったのは、欧州各国がそろって警戒する「コサック」という存在だった。ロシア南部の遊牧民を起源とする騎兵集団は、機動力・射撃・突撃のすべてで圧倒的で、ナポレオン戦争でも欧州軍を翻弄してきた。
その騎兵を、馬も人も劣る日本がどう抑え込むか — 秋山はこの問いを生涯の課題として日本に持ち帰った。帰国後、騎兵第一連隊長・陸軍乗馬学校長として、騎兵戦術の体系化と人材育成に没頭する。日露開戦時、彼が率いるのは騎兵第一旅団 — 規模も装備もロシアの足元に及ばない小さな部隊だった。
黒溝台と奉天 — 「踏みとどまる騎兵」
明治 38 年(1905 年)1 月、満洲・黒溝台。氷点下 20 度の極寒の中、秋山旅団は数倍のコサック騎兵に包囲される。秋山が選んだのは突撃ではなく、騎兵を下馬させ機関銃と塹壕で防御陣を組む戦法だった。本来「機動力こそ騎兵の生命」とされる時代に、騎兵を歩兵化して耐え抜くという発想は異端中の異端である。だが秋山の旅団は持ちこたえ、ロシア軍の側面包囲計画を破綻させた。
続く 3 月の奉天会戦でも、秋山は同じ思想で戦った。コサックの正面突撃を機関銃で削り、自軍は無理な反撃をせず態勢を保つ。「世界最強の騎兵を、騎兵で破った」 — 戦後の世界の軍事関係者がそう言ったとされるが、より正確には、秋山は騎兵という兵種の常識を組み替えることで、勝てない相手と引き分けに持ち込んだ。それが当時の日本陸軍にとっては、勝利と同義だった。
校長先生になった大将
凱旋後、秋山は朝鮮駐箚軍司令官・近衛師団長・教育総監を歴任し、大正 5 年(1916 年)に陸軍大将に進級。大正 12 年(1923 年)に予備役編入されると、郷里・松山に戻った。請われて引き受けたのは、北予中学校(現・愛媛県立松山北高校)の校長職である。「大将が校長か」と問う者には、「我輩は教育者だ」と応えたという。
昭和 5 年(1930 年)11 月 4 日、丹毒のため死去。享年 72。コサックを抑えた男の最後の肩書きは、地方の中学校長だった。
青山霊園に眠る
秋山好古の墓は、青山霊園 1種イ19号2側。同じ「1種イ19号」の区画には、近代日本の細菌学を世界水準に押し上げた北里柴三郎が眠る。軍人と科学者 — 明治日本が世界に打って出る上でなくてはならなかった両輪が、同じ一画に並んでいる。
郷里の松山市には秋山兄弟生誕地(秋山兄弟生誕地保存会館)と「坂の上の雲ミュージアム」があり、好古・真之兄弟の生涯を伝えている。