後藤 新平

ごとう しんぺい(Goto Shinpei)

後藤 新平の肖像
後藤 新平の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
生没年1857-07-24 〜 1929-04-13
時代明治・大正
分野政治家
墓所区画1種イ5号1側
タグ帝都復興 / 満鉄 / 台湾総督府 / 内務大臣

「大風呂敷」と呼ばれた帝都の設計者

後藤新平は、医師から政治家に転じ、台湾統治・南満洲鉄道・そして関東大震災後の東京改造という、明治・大正期日本のスケールの大きな仕事を立て続けに手がけた政治家である。「大風呂敷」という渾名は、その構想力が時代の常識をはみ出していたことの裏返しでもあった。

岩手県奥州市の水沢藩士の家に生まれ、須賀川医学校から内務省衛生局、ドイツ留学を経て衛生行政の専門家となる。明治 31 年(1898 年)、児玉源太郎総督の下で台湾総督府民政長官として植民地統治の制度設計を担い、明治 39 年(1906 年)には南満洲鉄道(満鉄)の初代総裁。「文装的武備」を掲げ、満鉄を単なる鉄道会社ではなく、調査・教育・産業を統合する総合的な国策会社へ育てた。後の満鉄調査部は日本最大級のシンクタンクとなる。

そして最大の仕事が、大正 12 年(1923 年)の関東大震災後の帝都復興である。焼け野原となった東京に対し、後藤は内務大臣兼帝都復興院総裁として、現在の東京の幹線道路・公園・橋梁の骨格を一気に描いた。当時の予算規模をはるかに超える計画は議会で大幅に削減されたものの、それでも昭和通り・大公園・隅田川六大橋など、東京 23 区の根幹インフラの多くは後藤の構想に源流を持つ。一人の政治家が首都の形をここまで決めた例は、戦後を含めても他にない。

医師から「人を治す」を「国を治す」に変えた男

後藤のキャリアは、医師として始まった。須賀川医学校を出て、内務省衛生局に勤務。ドイツ留学では公衆衛生行政を学んだ。彼にとって行政とは、文字通り「公衆を病から守る仕組み」だった。

日清戦争後、凱旋兵の検疫業務を任されたとき、後藤はわずか 2 か月で 23 万人の兵士を検疫所に通すという大規模なオペレーションをやり切った。コレラ流行を国内に持ち込ませなかったこの仕事が、児玉源太郎の目に留まる。「お前は人を治すより、国を治す方が向いている」 — そう児玉に台湾行きを命じられて、後藤は政治家になった。

台湾では阿片漸禁政策、土地調査、インフラ整備を順次進めた。彼の流儀は徹底した実証主義で、まず台湾人の生活・慣習・経済を綿密に調査してから政策を立てる。「生物学の原則」と本人が呼んだこの方法は、植民地統治の手法としては当時最も近代的なものだった。

帝都復興 — 一週間で書き上げた東京の青写真

大正 12 年(1923 年)9 月 1 日、関東大震災。東京は約半分が焼失し、推定 10 万人以上が死亡。同月内に山本権兵衛内閣が成立し、後藤は内務大臣兼帝都復興院総裁に就任した。

後藤が直ちに着手したのは、被災地全体を一括で買い上げて区画整理し、近代都市として作り直すという壮大な計画だった。総額 30 億円(当時の国家予算の数年分)、幹線道路網・大公園網・上下水道・港湾の全面再設計を含む構想を、後藤は約一週間でまとめあげたとされる。あまりの規模に「大風呂敷」と揶揄され、議会で予算は約 5 億円まで削られた。それでも、現在の昭和通り(幅 44m)・靖国通り・隅田川六大橋・浜町公園・錦糸公園など、東京の骨格となるインフラはこの時期に作られた。彼の青写真が削られた末に作られた東京で、現代の我々は今も暮らしている。

旅先で倒れる

晩年の後藤は政界を退き、東京市長・東京放送局(現 NHK)初代総裁・ボーイスカウト日本連盟初代総長など、社会教育の領域に軸足を移した。「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そしてむくいを求めぬよう」 — これは後藤が遺した自誡の言葉として広く伝わる。

昭和 4 年(1929 年)4 月、京都での講演旅行中に脳出血で倒れ、4 月 13 日に死去。享年 71。旅先で倒れる最期は、生涯動き続けた男にふさわしいものだった。

青山霊園に眠る

後藤新平の墓は、青山霊園 1種イ5号1側。岩手県奥州市の生誕地にも記念館があり、後藤の事業の全体像を伝えている。東京を歩くとき、幹線道路の太さや、震災復興公園の配置にふと目を留めれば、それが後藤の「大風呂敷」の名残であることに気づく。

墓所の位置

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参考資料

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