佐野 常民
さの つねたみ(Sano Tsunetami)
| 生没年 | 1823-02-08 〜 1902-12-07 |
|---|---|
| 時代 | 明治 |
| 分野 | 政治家 |
| 墓所区画 | 1種イ5号26側 |
| タグ | 日本赤十字社 / 元老院議長 / 佐賀藩 / パリ万博 |
日本赤十字社を作った男
佐野常民は、博愛社(後の日本赤十字社)を創設した、佐賀出身の政治家・人道事業家である。日本の近代的災害救護・戦時救護の制度的基盤を作った人物として、現代まで日本赤十字社が活動を続ける限り、佐野常民の名は消えない。
明治 10 年(1877 年)、西南戦争の最中。官軍と薩摩軍が熊本で激しい戦闘を繰り広げる中、佐野は政府に対し、敵味方を問わず傷病兵を救護する組織の設立を願い出た。当時の戦争観では、敵兵を救護することは「裏切り」と見なされかねない発想だった。だが佐野は明治 6 年(1873 年)のウィーン万国博覧会で、国際赤十字の創設者アンリ・デュナンの理念に触れた経験を持っていた。
「戦場の傷病兵に敵も味方もない。人道は国境を超える」 — この思想を、佐野は日本に持ち帰り、戦時下の混乱の中で「博愛社」として実体化した。これが、現在の日本赤十字社の起源である。
明治 21 年(1888 年)、国際赤十字社の規約に従い「日本赤十字社」と改称、佐野は初代社長に就任。日清・日露戦争でも戦時救護活動を組織化し、皇室の庇護を得て全国的な組織へと発展させた。戦時医療・災害救護の制度的基盤としての日本赤十字社は、現代の自然災害時の被災者支援にも直結している。東日本大震災(2011 年)、能登半島地震(2024 年)で活動した日赤の系譜は、佐野常民の明治 10 年の決断に発する。
並行して、佐野は明治政府で農商務大臣・大蔵卿・元老院議長を歴任した。明治 21 年(1888 年)から明治 23 年(1890 年)まで元老院議長として、大日本帝国憲法発布(1889 年)・帝国議会開設(1890 年)に至る制度整備期の議長を務めた、近代日本国制の出発期の中心人物の一人でもある。
明治 35 年(1902 年)12 月 7 日、東京で死去。享年 79。生涯を国家経営と人道事業に捧げた、明治日本に多くを残した政治家の長い人生が、ここで閉じた。
佐賀藩精煉方 — 日本最初の蒸気船と蒸気機関車模型
文政 5 年(1823 年)、肥前国佐賀郡(現・佐賀県佐賀市)に佐賀藩士・下村三郎左衛門の五男として生まれ、後に同藩士・佐野家の養子となる。緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだ。
佐賀藩主・鍋島直正は、幕末藩主の中で最も科学技術導入に積極的だった人物として知られる。佐野は鍋島の信任のもと、藩内に設置された精煉方(技術研究所)を主宰し、日本最初期の蒸気船・蒸気機関車模型・反射炉・大砲などの近代兵器・近代工業技術の導入を主導した。
幕末日本で最も進んだ技術研究機関だった佐賀藩精煉方は、後の三菱長崎造船所・三菱重工業・佐賀の近代化に直結する。明治近代化を担った人材として、佐野は技術系のバックグラウンドを持つ稀有な政治家だった。
ウィーンとデュナンとの出会い
明治 6 年(1873 年)、ウィーン万国博覧会に明治政府は佐野を副総裁として派遣した。日本がウィーン万博で世界に向けた本格的な文化外交を初めて展開した会であり、その帰路に佐野はジュネーブでアンリ・デュナンの理念に触れた。
デュナンは 1859 年のソルフェリーノの戦い(イタリア統一戦争)で、戦場の悲惨を目撃した経験から、1864 年にジュネーブ条約・国際赤十字を創設した人物である。「戦場の傷病兵を、敵味方を問わず救護する」という理念は、当時の世界では極めて先進的だった。
佐野はこの理念に深く感銘を受け、帰国後も機会を伺っていた。
西南戦争 — 博愛社の旗揚げ
明治 10 年(1877 年)、西南戦争勃発。官軍と薩摩軍が九州各地で激戦を繰り広げる中、佐野は政府に対し「敵味方を問わない救護組織」の設立を願い出た。当時、佐野は元老院議官として政府要職にあり、その提案は無視できない重みを持っていた。
陸軍卿・山県有朋らとの調整の末、政府はこれを認可。明治 10 年(1877 年)5 月、博愛社が結成された。当時、佐野はすでに 54 歳。明治国家の中枢にいながら、敢えて「敵兵を救う」という前例なき組織を立ち上げる選択は、彼の信念の確かさを示す。
博愛社は西南戦争で官軍・薩摩軍双方の傷病兵の救護にあたり、戦後も常設組織として存続した。
日本赤十字社へ
明治 19 年(1886 年)、日本政府はジュネーブ条約に加入。これを受けて明治 21 年(1888 年)、博愛社は日本赤十字社と改称、佐野は初代社長に就任した。皇室の庇護(皇后が名誉総裁)を得て、全国的な組織へと発展していく。
明治 27-28 年(1894-1895 年)の日清戦争、明治 37-38 年(1904-1905 年)の日露戦争、それぞれの戦時救護活動は日赤が組織化した。平時には看護師養成・救急医療の制度化を進め、現代まで続く「赤十字病院」「日本赤十字看護大学」の系譜が、佐野の時代に作られた。
静かな最期、佐賀の記念館へ
明治 35 年(1902 年)12 月 7 日、東京で死去。享年 79。生涯を国家経営と人道事業に捧げた長い人生が、静かに閉じた。
青山霊園に眠る
佐野常民の墓は、青山霊園 1種イ5号26側。同じ青山霊園には、明治政府で同時代を生きた多くの政治家・元勲が眠る。
郷里・佐賀市川副町早津江には佐野常民記念館があり、佐賀藩精煉方時代の科学機器、日本赤十字社創設期の資料、ウィーン万博での記録などが展示されている。「人道事業を国家事業として根付かせた男」の足跡を、佐賀でも東京でもたどることができる。