小村 寿太郎
こむら じゅたろう(Komura Jutaro)
| 生没年 | 1855-10-26 〜 1911-11-26 |
|---|---|
| 時代 | 明治 |
| 分野 | 政治家 |
| 墓所区画 | 1種ロ12号1・6側 |
| タグ | 外務大臣 / ポーツマス条約 / 日英同盟 / 飫肥藩 |
日露戦争を終わらせ、不平等条約を終わらせた男
小村寿太郎は、ポーツマス条約(1905 年 9 月)で日露戦争を終結させた日本側全権大使にして、関税自主権回復(1911 年)で幕末以来の不平等条約を最終的に終わらせた外務大臣である。明治日本が国際社会において自前の足で立てるようになるまでの最後の局面を、彼が個人として背負った。
身長 156 cm、痩躯で「ネズミ公使」と西洋人記者にあだ名された風貌だったが、外交手腕の評価は別格だった。明治 35 年(1902 年)、日露開戦の準備として駐英公使・林董と協力して日英同盟を締結。日本がアジアの一島国から世界の列強と肩を並べる扉を開いた条約である。続いて明治 38 年(1905 年)9 月、ポーツマス会議でロシア全権ウィッテと向き合い、樺太南半分・南満洲鉄道・遼東半島租借権を獲得した。
ただし賠償金は取れなかった。これが日本国内では激しい不満を生み、日比谷焼打事件(9 月 5 日)で帝都騒乱に発展。小村は「国民の怨み一身に背負う」と覚悟して帰国した。歴史的には「これ以上戦争を続けたら日本財政が破綻していた」という分析が一般化しており、小村の判断は今ではほぼ全ての歴史家から「正しかった」と評価されている。だが当時、政治家として最も苛烈な逆風を浴びた首席全権の一人だった。
そして明治 44 年(1911 年)、第二次桂太郎内閣の外相として関税自主権回復を達成。日米通商航海条約改正により、幕末の日米修好通商条約(1858 年)から続いた不平等条約を、ついに完全に終わらせた。同年 11 月 26 日、結核により死去。享年 56。日本の独立を「形式的にも実質的にも」完成させた直後の死だった。
飫肥の小藩士から、ハーバードへ
安政 2 年(1855 年)、日向国飫肥藩(現・宮崎県日南市)の藩士の長男として生まれる。飫肥は石高わずか 5 万 1 千石の小藩で、小村家も貧しい下級藩士の家系だった。藩校・振徳堂で学び、明治 3 年(1870 年)に大学南校(後の東京大学)へ進学。明治 8 年(1875 年)、第 1 回文部省海外留学生としてハーバード大学法学部に留学した。
帰国後、司法省を経て明治 17 年(1884 年)に外務省へ転任。清国代理公使・駐米公使・駐露公使・駐清公使などを歴任し、日清戦争後の三国干渉(1895 年)では本省で対応にあたった。「弱い国が大国に挟まれる構図」を骨身で理解した経験が、後年の対露交渉の冷徹なリアリズムにつながる。
日英同盟 — アジア最初の列強同盟
明治 34 年(1901 年)、第一次桂太郎内閣の外務大臣に就任。当時、ロシアは満洲・朝鮮への南下を続けており、日本の安全保障は危機に瀕していた。
小村が選んだのは、当時 19 世紀末以来「光栄ある孤立」を貫いていたイギリスとの同盟だった。駐英公使・林董と協力し、明治 35 年(1902 年)1 月 30 日、日英同盟をロンドンで締結。アジアの非白人国家がヨーロッパ列強と対等な同盟を結んだのは、これが世界史上初めてだった。日露戦争でロシアを孤立させ、戦争資金をロンドン金融市場で調達できたのも、この同盟あればこそだった。
ポーツマス、9 月のニューハンプシャー
明治 38 年(1905 年)8 月、米国大統領セオドア・ローズベルトの仲介で、米北東部ニューハンプシャー州ポーツマスの海軍工廠で日露講和会議が開かれた。ロシア側全権はセルゲイ・ウィッテ元蔵相、日本側首席全権は小村寿太郎外相。
主力会戦に勝ち続けた日本側だったが、財政・兵力ともすでに限界に近く、長期戦に耐えられないという内情は政府も大本営も把握していた。小村に与えられた訓令は、「樺太・賠償金などの絶対要求項目を取れ、無理なら諦めて講和成立を優先せよ」というものだった。
8 月から 9 月にかけての交渉は、ウィッテが世界に向けた巧妙な宣伝戦を展開する中で進んだ。9 月 5 日、小村は最終的に賠償金請求を取り下げ、樺太南半分・南満洲鉄道・遼東半島租借権の継承などを獲得して、ポーツマス条約を調印した。
同日、東京・日比谷公園で講和反対の国民大会が開かれ、群衆は内務大臣官邸・国民新聞社などを襲撃する日比谷焼打事件を起こした。「賠償金も樺太全土も取れぬ屈辱外交」 — 多くの国民にとって、それが小村の評価だった。日本に帰国した小村を待っていたのは、桂首相をはじめ政府首脳との内輪の労いと、世論からの強烈な非難だった。
関税自主権回復、そして帰らぬ人へ
明治 41 年(1908 年)、再び第二次桂内閣の外相に就任。最後の大仕事として、明治 44 年(1911 年)に関税自主権回復(日米通商航海条約改正)を達成した。幕末の安政五カ国条約以来 53 年、日本は外国の領事裁判権と関税不自由を強いられてきた。小村はその不平等条約の最後の鎖を断ち切り、日本を完全な独立国にした。
同年 11 月 26 日、結核により死去。享年 56。生涯を独立国としての日本の確立に捧げ、それを成し遂げた直後の死だった。
青山霊園に眠る
小村寿太郎の墓は、青山霊園 1種ロ12号1・6側。同じ「1種ロ12号」の区画には、ワシントン会議で日本首席全権を務めた加藤友三郎(海軍大将・首相)の墓がある。日露戦争を終わらせた小村と、ワシントン軍縮で戦争を未然に防いだ加藤 — 戦争と平和の両端を担った 2 人の外交主導者が、同じ一画に並んでいる。
郷里・宮崎県日南市飫肥には小村記念館があり、ポーツマス条約の関係資料を所蔵している。