田中 久重

たなか ひさしげ(Tanaka Hisashige)

田中 久重の肖像
田中 久重の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
生没年1799-10-16 〜 1881-01-11
時代江戸・明治
分野実業家
墓所区画1種ロ12号31側
タグからくり儀右衛門 / 万年時計 / 東芝 / 久留米

「東洋のエジソン」、そして東芝の祖

田中久重は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した発明家にして、東芝(東京芝浦電気)の祖である。「からくり儀右衛門」(からくりぎえもん)の異名で江戸時代後期から知られ、74 歳で東京に田中製造所(後の田中製作所 → 芝浦製作所 → 東京芝浦電気 → 東芝)を創業した。現代の東芝・東芝テック・キオクシア(東芝メモリ)・東芝エネルギーシステムズといった企業群はすべて、田中久重が興した一つの工場に源を持つ。

田中の業績の中で象徴的なのが、嘉永 4 年(1851 年)に完成した「万年自鳴鐘(万年時計)」である。和時計と洋時計の両機構を備え、24 個の歯車・1000 以上の部品で構成され、24 節気・月齢・曜日・干支・現在時刻・西洋時計の時刻を同時に表示する、江戸時代最高峰の精密機械であった。一度ゼンマイを巻けば 1 年動き続ける設計で、現代の技術者が分解・再現を試みても極めて難しいとされる江戸技術の粋。2006 年、国の重要文化財に指定された。

「弓曳童子(ゆみひきどうじ)」 — 矢を 4 本順に取り、的に向かって正確に射る人形。「文字書き人形」 — 客のリクエストに応じた文字を毛筆で書く人形。「茶運び人形」 — 茶碗を載せると向かいの客に運び、戻ってくる人形。江戸期からくり技術の集大成といえるこれらの作品は、田中の手で次々と作られた。「東洋のエジソン」と呼ばれる所以である(エジソンは田中より 50 年後の人物だが、世代を超えてその発明力を比較される)。

そして 74 歳で東京・銀座に田中製造所を創業(明治 8 年/1875 年)。電信機・蒸気機関・通信機器など、明治政府発注の各種工業製品を手掛け、日本の近代工業の基礎を築いた。現代の東芝は、田中久重の発明精神を直接受け継ぐ企業として、創業者ではなく「祖」として彼の名を顕彰している。

明治 14 年(1881 年)1 月 11 日、東京で死去。享年 82。江戸の鼈甲細工師の長男から明治日本最初期の工業企業の創業者まで、近代化の波を一人で渡り切った発明家の生涯だった。

久留米のからくり少年

寛政 11 年(1799 年)、筑後国久留米(現・福岡県久留米市)に鼈甲細工師の長男として生まれる。幼名・儀右衛門。少年期から機械仕掛けに異常な興味を示し、寺の祭礼で使われるからくり仕掛けの研究に没頭した。

20 歳前後で「からくり人形の興行」を始める。九州・上方を巡業しながら、「弓曳童子」「文字書き人形」「茶運び人形」など、複雑な機構を持つからくり人形の傑作を次々と作り出し、見世物として大評判をとった。「からくり儀右衛門」の異名は、彼の人形が江戸期日本で達した精密機械の最高峰だったことを示している。

大坂で「無尽灯」、京都で「万年時計」

天保 5 年(1834 年)に大坂に移り、巡業からくり師から「実用品の発明家」へと転身する。無尽灯(なたね油を空気圧で押し上げ、明るく長時間光る照明器具)、懐中燭台(携帯用ロウソク立て)、自鳴鐘(時計)など、生活に役立つ機械を発明・販売した。「楽しませる機械」から「役に立つ機械」へ — 田中の関心は江戸期工芸の枠を超え、明治の工業生産に近づきつつあった。

嘉永 4 年(1851 年)、52 歳のとき、田中は生涯の代表作「万年自鳴鐘」(まんねんじめいしょう)を完成させる。和時計と洋時計の両機構を備え、24 個の歯車・1000 以上の部品で構成。一度ゼンマイを巻けば 1 年動き続け、24 節気・月齢・曜日・干支・和時計の不定時法・洋時計の定時法を同時に表示する、江戸時代日本の精密機械技術の到達点である。

現代の技術者が分解して内部構造を解析することすら困難な精度で、「江戸時代の日本人がここまで作れた」という事実そのものが、明治近代化を支えた技術基盤の厚みを示している。2006 年に国の重要文化財に指定され、現在は東京・上野の国立科学博物館で実物が展示されている。

佐賀藩精煉方 — 蒸気船と反射炉

嘉永 6 年(1853 年)、ペリー来航の年。佐賀藩主・鍋島直正は近代化を急ぎ、藩内に精煉方(技術研究所)を設置。田中は精煉方に招かれ、蒸気機関・蒸気船・反射炉・大砲などの近代兵器・近代工業技術の開発に従事した(同じ時期、佐野常民も精煉方を主宰している)。

幕末日本で最も進んだ技術研究機関だった佐賀藩精煉方で、田中は日本最初期の実用蒸気機関の試作にも関与した。彼の手は、江戸のからくり人形から、明治の蒸気機関へと、無理なく連続的に動いていた。

74 歳の創業

明治 6 年(1873 年)、田中は東京・銀座に田中製造所を創業した(諸説あるが、本格的な拡張は明治 8 年/1875 年とされる)。74 歳での起業である。明治政府発注の電信機・通信機器を中心に、近代産業基盤の整備に貢献した。

田中製造所は後に田中製作所 → 芝浦製作所 → 東京芝浦電気(1939 年に芝浦製作所と東京電気が合併)→ 東芝(1984 年改称)と発展する。東芝の社史において、田中久重は「祖」として位置づけられ、初代社長以前の「源流」として顕彰されている。

明治 14 年(1881 年)1 月 11 日、東京で死去。享年 82。江戸の鼈甲細工師の長男が、近代日本最初期の工業企業の創業者として最期を迎えた。

青山霊園に眠る

田中久重の墓は、青山霊園 1種ロ12号31側。同じ「1種ロ12号」の区画には、ポーツマス条約全権・小村寿太郎、ワシントン軍縮条約全権・加藤友三郎(海軍大将・首相)の墓もある。明治外交を担った 2 人と、明治工業を作った 1 人 — 異なる分野で明治国家を世界水準に押し上げた人物が、同じ一画で眠っている。

万年自鳴鐘は国立科学博物館(東京・上野)で実物を見学可能。郷里・福岡県久留米市にはからくり儀右衛門の生家跡があり、田中久重の発明精神を顕彰する展示が見学できる(東芝未来科学館は 2024 年閉館後、デジタル資料館に移行)。

墓所の位置

同じ区画(1種ロ12号)の偉人

参考資料

← 偉人一覧に戻る