乃木 希典
のぎ まれすけ
Nogi Maresuke
日露戦争で旅順を陥落させた陸軍大将。明治天皇の大喪の日に妻静子とともに自刃した。
明治天皇に殉じた陸軍大将
乃木希典は、日露戦争で第三軍司令官として旅順要塞を陥落させた陸軍大将である。明治期日本の軍人としては最も広く名を知られた人物で、最後は明治天皇の大喪の日(明治 45 年/1912 年 9 月 13 日)に妻・静子とともに自刃殉死した。
その死は同時代の日本社会に衝撃を与え、近代化の中で失われつつあった「武士の精神」が大将一人の最期に凝縮された出来事として、夏目漱石『こゝろ』(1914 年)、森鷗外『興津弥五右衛門の遺書』(1912 年)など、明治末から大正期の代表的文学作品に直接反映された。
軍人としての評価は分かれる。旅順攻略では多数の犠牲を出し(日本側戦死約 1 万 5 千、負傷約 4 万 4 千)、その指揮の是非は司馬遼太郎『坂の上の雲』以来今日まで論争が続いている。一方、戦後は明治天皇の信任により学習院院長に就任し、後の昭和天皇となる迪宮裕仁親王の教育にあたった。「軍人 + 教育者」「殉死」という多面的な顔を持つことが、乃木という人物を近代日本でかつてないほど特異な存在にしている。
死後、東京・赤坂の旧乃木邸跡(現・乃木坂)に乃木神社が建立され、京都・伏見、栃木県那須にも乃木神社が建立された。「乃木坂」「乃木坂駅」「乃木神社」 — 現代東京の地名にも、その名は刻まれている。
長府藩士の三男、西南戦争で連隊旗を奪われる
嘉永 2 年(1849 年)、長州藩士・乃木希次の三男として江戸の長府藩上屋敷に生まれる。幼名は無人(なきと)。長州の本藩ではなく、支藩・長府藩士の出身であることが、後の彼の屈折の一因にもなった。
明治 4 年(1871 年)、陸軍少佐に任官。明治 10 年(1877 年)の西南戦争では、歩兵第 14 連隊長として従軍した。熊本城近郊の戦闘で、乃木の連隊は西郷軍に連隊旗を奪われるという重大な失態を犯した。連隊旗は天皇から賜った象徴であり、これを敵に奪われることは軍人として最大の不名誉とされる。
乃木はこの負い目を生涯背負い続けた。実は明治天皇崩御の際に殉死を選んだ動機の一つは、35 年前に奪われた連隊旗の責任にあったとされる(乃木自身の遺書に明記されている)。一つの戦闘の失態を 35 年間心に抱え続けた人物 — それが乃木希典という軍人だった。
旅順 — 二〇三高地の戦い
明治 37 年(1904 年)、日露戦争勃発。乃木は第三軍司令官として旅順攻略を担当した。旅順要塞はロシアが多年にわたって築き上げた永久要塞で、機関銃陣地と砲台のクロスファイヤーで防御される、当時世界最高水準の要塞だった。
第一回総攻撃(1904 年 8 月)、第二回(同 10 月)、第三回(同 11 月) — いずれも正面突撃を繰り返し、莫大な戦死者を出した。最終的に、海軍の要請で二〇三高地(旅順港全体を見下ろせる丘)の攻略に重点を移し、明治 37 年(1904 年)12 月にこれを攻略。山頂から旅順港のロシア艦隊を観測射撃で沈め、明治 38 年(1905 年)1 月、要塞司令官ステッセル将軍の降伏を引き出した。
降伏会見の場で、乃木は敗将ステッセルに対し帯剣を許し、敗者の名誉を最大限尊重した。「水師営の会見」と呼ばれるこの場面は、文部省唱歌『水師営の会見』として広く歌われ、武士道精神の象徴として戦前期日本に深く刻まれた。
しかし乃木の二人の息子・勝典(長男)と保典(次男)も、ともに旅順で戦死した。「自分は何万人もの兵を死なせた。我が子も死なせた」 — 乃木の遺書には、この苦しみが繰り返し綴られている。
学習院院長 — 大正天皇の幼少教育を担う
戦後の明治 40 年(1907 年)、明治天皇の信任により学習院院長に就任。後の昭和天皇となる迪宮裕仁親王(当時 6 歳)をはじめ、皇族・華族の子弟の教育を担った。
乃木は質実剛健な教育を貫いた。寮制度での集団生活、薄着・粗食・冷水摩擦 — 皇族の子弟に対しても容赦のない厳しさで臨んだ。後年の昭和天皇は、晩年まで乃木の教育の影響を口にしている。「将来天皇となる人物を、武士として育て上げる」 — それが明治天皇から乃木に託された最後の使命だった。
9 月 13 日、明治神宮造営の年に
明治 45 年(1912 年)7 月 30 日、明治天皇崩御。同年は元号が大正に改元され、明治神宮造営が始まった年でもある。9 月 13 日、大喪の儀の砲声を東京の街が聞いていた夕刻、乃木は赤坂の自宅で割腹自殺を遂げた。妻・静子も同時に咽喉を刺して殉死した。乃木は 62 歳、静子は 53 歳。
乃木が遺した遺書には、西南戦争で連隊旗を奪われた責任、旅順で多くの兵を死なせた責任、そして「明治の御代を生き抜いた我が身を、君に従わせる」という殉死の意志が綴られていた。
明治の精神が一人の軍人の最期に凝縮されたこの事件は、すでに近代化に進んでいた日本社会に強烈な衝撃を与えた。「殉死」という前近代的な行為が、近代の最先端を体現していた陸軍大将の手で実行された — そのねじれを、夏目漱石は『こゝろ』で先生の自殺の動機として書き、森鷗外は『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』で「殉死とは何か」を問い直す作品を立て続けに発表した。
血族の著名人
乃木一家は日露戦争で家族のほぼ全員を失った、近代日本でも稀有な一族である。
- 妻・乃木 静子 — 明治 45 年(1912 年)9 月 13 日、夫・希典の自刃と同時に咽喉を刺して殉死(享年 53)。夫婦同時の自殺は近代日本で大きな衝撃を呼んだ
- 長男・乃木 勝典 — 陸軍歩兵少尉。日露戦争・南山の戦い(1904 年 5 月)で戦死(享年 24)
- 次男・乃木 保典 — 陸軍歩兵少尉。日露戦争・203 高地の戦い(1904 年 11 月)で戦死(享年 23)
乃木家は希典夫妻の自刃により断絶した(直系の血筋は途絶)。明治の精神が一家族の絶滅という形で凝縮した、近代日本史で最も悲劇的な家族の物語の一つである。
逸話・エピソード
「ここはお国の何百里」 — 軍歌『戦友』が泣かせた将軍
旅順攻略戦の凄惨な犠牲を経た乃木は、戦後しばらく公の場で軍歌『戦友』(真下飛泉作詞、三善和気作曲、1905 年)を聞くと涙を流すと言われた。「ここはお国の何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下」 — その歌詞は、自分が指揮して死なせた一万五千人の兵士、そして自分の二人の息子の姿に重なった。
軍歌『戦友』は明治末から大正にかけて国民的愛唱歌となったが、陸軍内では「厭戦的」として歌うことを禁じた連隊もあった。乃木自身は禁止に賛成しなかったとされる。「あの歌を歌わせないなら、誰が兵を悼むのか」 — 部下に対してそう漏らしたと伝わる。多くの兵を死なせた指揮官だからこそ、彼らを悼む歌を遠ざけられなかった。
学習院での「ピリッとする」教育
学習院院長時代、乃木は皇族・華族の子弟に対して質素を徹底した。冬でも薄着、食事は一汁一菜、廊下歩行も背筋を伸ばさせる。後の昭和天皇となる迪宮裕仁親王(当時 6 歳)が冬の寒い朝、震えながら登院した姿を見て、乃木は自分のマントを脱いで「お持ちなさい」と差し出した。
ただし続けてこう言ったと伝わる。「殿下、寒さに勝てぬ者は人にも勝てません」 — マントを与えながら、寒さに耐える精神を要求する。後年、昭和天皇は「乃木院長の教育を受けたことが、生涯の財産だった」と繰り返し述べている。質実剛健と人間的温かみを同時に体現した教育者として、乃木の姿は皇室の語りの中に今も生き続けている。
9 月 13 日夜の遺書 — 35 年抱えた連隊旗の責任
明治 45 年(1912 年)9 月 13 日、大喪の儀の砲声が東京の空に響いた夕刻、乃木は赤坂の自宅で十数通の遺書を書いた。最も長い一通は「明治天皇に賜はる勅諭」を反芻したもので、ここに乃木は西南戦争(1877 年)で連隊旗を西郷軍に奪われた負い目を書き記した。「35 年間、この責任を胸に抱えてきた」 — 自決の直接の動機の一つを、本人の筆で残した遺書である。
妻静子の遺書も同時に発見された。「夫に従う」とだけ書かれた短い文面で、当日まで誰にも自決を漏らさなかった夫婦の覚悟が伝わる。夫が割腹し、妻が咽喉を刺す — 同時刻、同じ部屋での自刃。明治の精神が一組の夫婦の死で完結したこの夜の出来事は、夏目漱石『こゝろ』の先生の自殺、森鷗外『阿部一族』『興津弥五右衛門の遺書』として、近代日本文学の核心へと流れ込んでいった。
青山霊園に眠る
乃木希典・静子夫妻の墓は、青山霊園 1種ロ10号26側。赤坂の旧乃木邸跡(現・乃木神社、乃木坂)とともに、明治の精神を偲ぶ参拝者が今も訪れる場所である。
乃木坂駅(東京メトロ千代田線)の名は、この坂と乃木邸跡に由来する。アイドルグループ「乃木坂46」の名も、突き詰めればこの陸軍大将の自宅跡から生まれた地名にたどり着く。






