尾崎 紅葉
おざき こうよう(Ozaki Koyo)
| 生没年 | 1868-01-10 〜 1903-10-30 |
|---|---|
| 時代 | 明治 |
| 分野 | 文化人 |
| 墓所区画 | 1種ロ10号14側 |
| タグ | 硯友社 / 金色夜叉 / 擬古典主義 / 我楽多文庫 |
『金色夜叉』を遺した明治の人気作家
尾崎紅葉は、硯友社(けんゆうしゃ)を結成し、未完の代表作『金色夜叉』を遺した明治期日本最大の人気作家である。明治 20-30 年代の日本文学界で、紅葉門下は最も大きな影響力を持つ作家集団となり、泉鏡花・徳田秋声・小栗風葉・柳川春葉ら「紅葉門下四天王」を輩出した。
明治 18 年(1885 年)、第一高等中学校(後の旧制一高)在学中に、山田美妙・石橋思案・丸岡九華らとともに文学結社硯友社を結成。日本初の同人雑誌『我楽多文庫』(がらくたぶんこ)を創刊し、明治期文学が政治運動から自立した「純文学」として歩み始める土台を作った。
代表作『金色夜叉』(明治 30-36 年/1897-1903 年、読売新聞連載)は、銀行家令嬢・鴫沢宮(お宮)と、彼女に裏切られた婚約者・間貫一の悲恋を描いた長編小説。「ダイヤモンドに眼が眩んだか」(貫一の有名な台詞)、熱海海岸での貫一の有名な独白「今月今夜のこの月を、僕の涙で曇らせて見せる」 — これらの台詞は明治・大正・昭和を通じて広く愛され、新派演劇・映画・歌謡曲の題材として繰り返し再生産された。熱海の海岸には「金色夜叉」の貫一・お宮の像が建ち、現在も観光名所となっている。
そして明治 36 年(1903 年)10 月 30 日、胃癌により死去。享年 35。『金色夜叉』は未完のままだった。後に弟子の小栗風葉が続編を書いたが、紅葉自身による完結は永遠に失われた。
明治文学最盛期の中心人物を、わずか 35 歳で失った事件である。同年に没した正岡子規(享年 34)と並んで、「明治文学のかけがえのない損失」として語り継がれている。
江戸の御用達商人の息子から、紅葉山人へ
慶応 3 年 12 月 16 日(西暦 1868 年 1 月 10 日)、江戸芝中門前町(現・東京都港区芝)に幕府御用達商人・尾崎惣蔵の長男として生まれる。本名は徳太郎、紅葉は号(後年「紅葉山人」とも称した)。
第一高等中学校(後の旧制一高)に進学。在学中の明治 18 年(1885 年)、わずか 17 歳で同窓の山田美妙・石橋思案・丸岡九華らと硯友社を結成し、同人雑誌『我楽多文庫』を創刊する。「政治小説」「啓蒙小説」が主流だった当時の文学界に、若者たちが自分たちの言葉で創作する空間を切り開いた、日本文学史上画期的な事件である。
読売新聞連載小説、そして大衆作家へ
明治 22 年(1889 年)、東京帝国大学国文科に入学。同時に読売新聞社に入社し、新聞小説の連載を始めた。明治 24 年(1891 年)、『二人比丘尼色懺悔』で文壇に地歩を確立。続いて『多情多恨』(1896 年)、『心の闇』(1893 年)など、雅俗折衷体(雅文と話し言葉を融合させた文体)による恋愛・人情小説を次々と発表した。
紅葉の登場で、日本の新聞小説は文壇の中心的ジャンルとなった。後の朝日新聞での夏目漱石、東京日日新聞での尾崎一雄ら、新聞連載作家としての近代文学の系譜は、紅葉が読売で開いた道に発する。
『金色夜叉』 — 「今月今夜のこの月を…」
明治 30 年(1897 年)1 月 1 日、読売新聞紙上で『金色夜叉』の連載が始まった。原型はバーサ・M・クレイのアメリカ小説『Weaker than a Woman』(女より弱きもの、女性誌で連載されていた)に着想を得たとされるが、紅葉は完全に日本化して書いた。
主人公・間貫一は、許嫁の鴫沢宮(お宮)が銀行家・富山唯継のダイヤモンド指輪に目が眩んで、自分を捨てるという事件に直面する。熱海海岸の月夜、宮を蹴り倒して罵る貫一の有名な独白 — 「ダイヤモンドに眼が眩んだか、おの吐かしやがれ、明月の夜は涙ぐむ夜だ。来年の今月今夜、再来年の今月今夜、十年後の今月今夜、僕の涙で月を曇らせてやる」 — このシーンは明治・大正・昭和の日本社会で広く愛され、何度も映画化・舞台化された。
連載は明治 36 年(1903 年)10 月まで断続的に続いた。紅葉が物語をどう完結させるつもりだったかは、本人の手記にもメモが残るが、決定的な構想は最後まで固まらなかったとされる。
弟子たちの育成
紅葉門下からは、泉鏡花・徳田秋声・小栗風葉・柳川春葉ら「紅葉門下四天王」が育った。特に泉鏡花は、紅葉の指導なしには存在しなかった作家である。鏡花は紅葉の家に住み込みで弟子入りし、紅葉の死まで側近として仕えた。
紅葉は弟子に対して厳しい添削で知られ、「原稿を書き直させる」「文体を磨き上げさせる」という指導は、明治後期の日本文壇に「師弟制度による作家育成」というスタイルを根付かせた。現代の文学賞・新人賞による発掘システム以前の、文学者の連鎖の作り方として、紅葉門下は最大の成功例の一つである。
35 歳、胃癌で逝く
明治 36 年(1903 年)頃から紅葉は体調を崩した。胃癌だった。執筆を続けながら病状は悪化し、同年 10 月 30 日、東京・牛込横寺町(現・新宿区横寺町)の自宅で死去した。享年 35(満 35)。
同年、正岡子規も結核で死亡(享年 34)。明治文学の盛時を作った中堅作家を、わずか数年の間に立て続けに失う出来事だった。
青山霊園に眠る
尾崎紅葉の墓は、青山霊園 1種ロ10号14側。同じ青山霊園には、紅葉と同年に逝った同時代の作家・国木田独歩(1908 年没、享年 36)の墓もある。明治文学の盛時を作った若い作家たちが、同じ霊園内で眠っている。
熱海市の海岸には「金色夜叉」の貫一・お宮の像と「お宮の松」(連載当時のものは枯れ、二代目が植えられている)が遺り、紅葉と『金色夜叉』を訪ねる観光客が絶えない場所となっている。