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安政の大獄(戊午の密勅事件)


大老井伊直弼が日米修好通商条約の無勅許調印と将軍継嗣問題を巡って、反対派の公卿・大名・志士百名以上を弾圧。橋本左内・吉田松陰ら有為の人材が処刑され、二年後の桜田門外の変の直接の引き金となった。

Ii Naosuke
Ii Naosuke 京狩野家第9代 狩野永岳 (Kanō Eigaku (1790~1867)) / Wikimedia Commons / Public domain
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大老の独裁が招いた百名超の弾圧

安政五年八月八日(陽暦 1858 年 9 月 14 日)、孝明天皇は水戸藩へ「戊午の密勅」を下賜した。条約勅許なしの調印を強行した幕府への抗議を求めるもので、幕府の頭越しに朝廷が一藩へ勅を下した前代未聞の事態であった。これに激怒した大老井伊直弼は、密勅授受に関与した一橋派・尊王攘夷派を一斉に粛清する大弾圧を発動。安政の大獄と呼ばれるこの弾圧は安政五年から六年にかけて続き、連座者は公卿・大名・藩士・浪士・学者ら百名を超え、処刑・遠島・蟄居・隠居の処分が下された。

背景 — 条約勅許問題と将軍継嗣問題

弾圧の発端は二つあった。第一に日米修好通商条約。タウンゼント・ハリス米総領事の強硬な要求に応じ、井伊直弼は安政五年六月十九日、孝明天皇の勅許を得ぬまま条約調印を強行した。攘夷を国是と信じる朝廷と尊王派は激怒した。第二に将軍継嗣問題。十三代将軍家定の後継を巡り、一橋慶喜(後の慶喜)を推す一橋派と、紀州慶福(後の家茂)を推す南紀派が対立。井伊は南紀派の領袖として一橋派の有力大名・公卿を一斉排除した。

経過 — 橋本左内・吉田松陰らの処刑

処分の対象は広範に及んだ。越前藩士橋本左内、長州藩士吉田松陰、頼三樹三郎、梅田雲浜らが死罪。徳川斉昭(水戸)・松平慶永(越前)・山内豊信(土佐)・伊達宗城(宇和島)ら一橋派四賢侯は隠居・謹慎処分。京都の公卿では鷹司政通・近衛忠熙・三条実万らが落飾・出家を強いられた。志士層を直接襲ったこの弾圧は、各藩の若き尊王派に「井伊大老こそ国賊」という認識を植え付け、討幕運動の核を形成することになる。

結果 — 桜田門外の変への直接の伏線

安政の大獄は短期的には井伊政権の支配力を強化したように見えたが、長期的には致命的な反動を呼んだ。処刑された松陰の門下からは高杉晋作・伊藤博文・山県有朋らが育ち、後の長州倒幕の核となる。水戸では密勅返納を巡る藩内対立が激化し、脱藩浪士団が形成された。そして万延元年三月三日、水戸・薩摩の浪士十八名が江戸城桜田門外で井伊直弼を襲撃。安政の大獄の二年後、弾圧の主は弾圧の対象に討たれた。

参考資料

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