六〇年安保闘争(新安保条約強行採決)
岸信介内閣が新日米安全保障条約を衆議院本会議で強行採決。これに抗議する空前の市民運動が国会を連日包囲し、六月十五日の樺美智子死亡、十九日の自然成立、二十三日の岸内閣総辞職へ。戦後最大の政治闘争となり、池田勇人内閣の所得倍増路線へ転換する分岐点となった。
国会を取り囲んだ三十万の市民
昭和三十五年(一九六〇)五月十九日深夜から二十日未明にかけて、岸信介内閣は新日米安全保障条約の批准案を衆議院本会議で強行採決した。社会党議員が議長席を取り巻く中、警官隊五百名が議場に導入され、清瀬一郎議長が四十六分間の会期延長を宣告した後、自民党単独で起立採決を強行する異例の事態となった。これに抗議する国民運動は爆発的に拡大し、連日数十万人(主催者発表)が国会周辺を埋め尽くした。六月十五日には全学連主流派が国会南通用門から突入を試み、警官隊との衝突で東大生樺美智子が死亡。六月十九日午前零時、新安保条約は参議院の議決なしに自然成立した。岸首相は六月二十三日に新条約批准書交換を済ませた後、内閣総辞職を表明した。戦後最大規模の政治闘争であった。
背景 — 旧安保条約の改定と岸政権の強行路線
闘争の対象となった日米安保条約は、サンフランシスコ講和条約(一九五一年九月)と同時に締結された旧安保条約の改定版であった。旧条約は米軍の日本駐留を認める一方で米国の日本防衛義務を明記せず、米軍が日本国内の内乱鎮圧にも介入できる等、占領延長のような不平等条約と批判されていた。岸信介首相は外相時代から条約改定を悲願としており、一九六〇年一月十九日にワシントンで新条約に調印。新条約は米国の日本防衛義務を明記し、内乱条項を削除する等の改善を含んでいたが、極東有事の際の日本基地使用と日米の事前協議制度が日本を自動的に米国の戦争に巻き込む懸念を生んだ。岸の戦前経歴(東條内閣商工相・A級戦犯被指名)への反感も、運動の盛り上がりに作用した。
経過 — ハガティ事件・樺美智子死亡・アイク訪日中止
五月十九日の強行採決後、運動の主体は社会党・共産党・総評(労働組合)・全学連・知識人グループの五つに広がり、市民・主婦・文化人・宗教者まで参加する空前の規模に発展した。六月十日には予定されていたアイゼンハワー米大統領訪日の事前協議のため来日したジェームズ・ハガティ大統領報道官が、羽田空港でデモ隊に包囲され米海兵隊ヘリで救出される事件(ハガティ事件)が発生。六月十六日には政府はアイゼンハワー訪日中止を米側に要請する屈辱的な決断を下した。六月十九日午前零時、新条約は憲法第六十一条に基づき参議院の議決なしに自然成立(衆議院議決後三十日経過)。世論調査では岸内閣支持率は十二%まで急落していた。
影響 — 政治の季節から経済の季節へ
岸内閣総辞職を受けて七月十九日、池田勇人内閣が成立。池田は「寛容と忍耐」を掲げて政治闘争のトーンを下げ、十二月二十七日に所得倍増計画を閣議決定し、政治イデオロギーから経済成長への国民的関心の移行を主導した。安保闘争は戦後日本の政治路線を決定づけた分岐点であり、以後の保守政治は「経済成長による国民統合」を主軸とする路線が定着する。新日米安保条約はその後一度も改定されず、本稿執筆時点に至るまで日米同盟の法的枠組みとして機能し続けている。国会周辺を埋めた市民運動は政治史の象徴的な一場面として、後の世代の集合的記憶に深く刻まれた。