藤島 武二 (1867-1943)の肖像
藤島 武二の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

藤島 武二

ふじしま たけじ

Fujishima Takeji

明治末から昭和期にかけて日本洋画壇を率いた指導的画家。ロマン主義的作風で『天平の面影』『黒扇』『蝶』を残し、第一回文化勲章受章者の一人。

生没年
出身地
薩摩国鹿児島城下池之上町(現・鹿児島県鹿児島市)
死没地
東京
時代
明治・昭和
役職
洋画家
爵位
従三位
出身校
東京美術学校
所属
白馬会 / 帝国美術院 / 帝国芸術院
受勲
文化勲章(1937) / 勲二等瑞宝章(1943)
区画
1種イ1号31側
タグ
洋画 / 白馬会 / 東京美術学校 / 文化勲章 / 帝室技芸員

明治末から昭和の日本洋画を率いた巨匠

藤島武二は、明治末から昭和戦中期にかけて日本洋画壇の指導的位置にあり続けた画家である。ロマン主義的な甘美さと東洋的な装飾性を兼ね備えた作風で、『天平の面影』(1902)・『黒扇』(1908-1909)・『蝶』(1904)といった代表作を残し、第一回文化勲章(1937)を受章した。

東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科教授として、明治末から昭和初期にかけて 35 年以上にわたり後進を育てた。日本人画家の手で「日本の洋画」をいかに作り上げるか — この問いを生涯背負い続けた人である。

薩摩から東京美術学校教授へ

慶応 3 年(1867 年)10 月 15 日、薩摩国鹿児島城下池之上町(現・鹿児島県鹿児島市)に生まれる。鹿児島は明治国家を作った政治家を多数輩出した土地だが、藤島はそこから絵画の道へ進んだ異色の存在だった。

初めは四条派の日本画を学んだが、明治 23 年(1890 年)頃から洋画に転じる。山本芳翠・松岡寿らに学び、29 年(1896 年)、黒田清輝が中心となって結成した洋画団体「白馬会」の創立に発足時から参加した。

同年、東京美術学校に新設された西洋画科の助教授に就任。以後、教授・名誉教授として大正・昭和を通じて教壇に立ち続けた。

『天平の面影』『黒扇』 — 日本洋画の古典

明治 35 年(1902 年)発表の『天平の面影』は、奈良時代の女性を主題に琵琶を抱える女人像を描いた藤島の代表作の一つで、白馬会展に出品された。日本の古典題材を西洋画法で描く試みとして、明治洋画史の節目に位置する作品である。

明治 38 年(1905 年)から 43 年(1910 年)まで、文部省給費生としてフランス・イタリアに留学。コラン、カロリュス・デュランらに学び、ルネサンス絵画とイタリアの古典に深く触れて帰国した。

留学中の明治 41 年(1908 年)から翌年にかけて描かれた『黒扇』は、イタリア人女性を真横から描いた肖像で、東洋的装飾性を西洋古典の形式に溶かし込んだ藤島ロマン主義の到達点とされる。

本郷洋画研究所、後進育成

大正元年(1912 年)、藤島は岡田三郎助とともに本郷洋画研究所を設立した。東京美術学校という官の場とは別に、若い画家たちを養成する私塾的な場を作ったのである。

両者は性格・作風ともに対照的だった。藤島は男性的・構築的・ロマン主義的、岡田は女性美を得意とする繊細な写実派。しかし二人は「日本の洋画の標準を作る」という共通の使命感で結ばれていた。

藤島は教育者としても影響を残し、児島善三郎・里見勝蔵ら昭和洋画を担う世代を育てた。

文化勲章、そして晩年

昭和 12 年(1937 年)、文化勲章制度の創設にあたり、藤島は第一回受章者の一人に選ばれた。岡田三郎助も同時受章で、本郷洋画研究所の盟友二人がそろって近代日本最高の栄誉に並んだ。

昭和 9 年(1934 年)、藤島は天皇の御前で講演する機会を得て、皇室への絵画奉納も行うようになる。皇室御物として『芳蕙』『うつつ』などが収蔵された。

昭和 18 年(1943 年)3 月 19 日、東京の自邸で逝去。享年 75。同年 1 月に勲二等瑞宝章、没後に従三位を追贈された。

青山霊園に眠る

藤島武二の墓は、青山霊園 1種イ31号1番甲・1・2 にある。同じく 1種イ34・35号区画には本郷洋画研究所の盟友 岡田三郎助 が眠り、明治・大正・昭和の日本洋画を作った二人が、共に青山霊園に並んで眠っている。

墓参り写真

  • 墓所 1

    — 墓所 1

墓所の位置

参考資料

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