岡田 三郎助 (1869-1939)の肖像
岡田 三郎助の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

岡田 三郎助

おかだ さぶろうすけ

Okada Saburosuke

「日本の洋画に最も美しい女性像を描いた画家」として知られる明治・大正・昭和の洋画家。第一回文化勲章受章。藤島武二と本郷洋画研究所を共同設立。

生没年
出身地
肥前国佐賀(現・佐賀県佐賀市八幡小路)
死没地
東京府豊多摩郡渋谷町下渋谷(現・渋谷区恵比寿)
時代
明治・昭和
役職
洋画家
爵位
従三位
出身校
東京美術学校
所属
白馬会 / 帝国美術院 / 帝室技芸員(1934)
受勲
第一回文化勲章(1937)
区画
1種イ1号35側
タグ
洋画 / 女性像 / 東京美術学校 / 文化勲章 / 帝室技芸員 / 本郷洋画研究所

「日本洋画の女性美」を確立した佐賀の画家

岡田三郎助は、日本の洋画に最も美しい女性像を残した明治・大正・昭和の画家である。代表作『あやめの衣』(1927)・『婦人像』(1907)・『支那絹の前』(1920)は、和装の日本女性を西洋油彩で描き、繊細な肌理と布の質感、何より「日本人女性の美しさそのもの」を画面に定着させた。

昭和 12 年(1937 年)、文化勲章制度の創設にあたり、岡田は同郷佐賀出身の盟友はないが洋画界の同志 藤島武二とともに第一回文化勲章を受章。明治国家を作った佐賀の七賢人を輩出した同じ土地から、近代日本洋画の頂点に立った画家が出たことになる。

佐賀から東京美術学校、そしてパリへ

明治 2 年(1869 年)2 月 22 日、肥前国佐賀城下八幡小路(現・佐賀県佐賀市)に佐賀藩士の三男として生まれる。佐賀は明治国家の制度設計者を多数生んだ土地で、岡田もまた幕末佐賀藩の士族の家に育った。

10 代で東京へ出て、洋画家の曾山幸彦に師事。明治 27 年(1894 年)から明治期洋画運動の中心人物 黒田清輝の門下に入った。明治 29 年(1896 年)、黒田が立ち上げた洋画団体 白馬会の創立に参加。同年に新設された東京美術学校西洋画科の助手となる。

明治 30 年(1897 年)から 35 年(1902 年)まで、文部省給費生としてフランスに留学。ラファエル・コランに師事し、印象派以前のアカデミック写実を骨太に学んだ。コランは黒田清輝の師でもあり、明治洋画は「コラン経由のフランス写実」を共通の土壌として育った。

『婦人像』『あやめの衣』 — 日本女性の美

帰国後、岡田は東京美術学校の教授に就任、以後 30 年以上にわたって西洋画科で教鞭をとる。

明治 40 年(1907 年)の文展に出品された『婦人像』は、和装の若い女性を背後から描いた構図で、岡田の女性像様式を決定づけた一作となった。大正 9 年(1920 年)の『支那絹の前』、昭和 2 年(1927 年)の『あやめの衣』など、和装女性を主題とした作品群は、岡田の名を一般家庭の応接間にまで知らしめた。

「日本女性の美しさを最も上品に描く画家」 — 岡田の評価は、油絵という外来技法を使って、日本人の身体性と着物の質感を西洋絵画の文法で定着させた点にあった。

本郷洋画研究所、後進育成

大正元年(1912 年)、岡田は 藤島武二 とともに本郷洋画研究所を設立した。東京美術学校という官の場とは別に、若い画家を養成する私塾を始めたのである。

藤島が男性的・構築的、岡田が繊細・写実派という対照的な作風の二人が、共通の使命感で組んだことで、本郷洋画研究所は大正・昭和初期の洋画界に多くの人材を送り出した。

昭和 9 年(1934 年)、帝室技芸員に任ぜられる。皇室御物として『静子内親王御肖像』ほかを描いた。

文化勲章、そして急逝

昭和 12 年(1937 年)4 月、文化勲章制度創設の第一回受章者として 9 名が選ばれ、岡田はその一人に名を連ねた。同時受章には 藤島武二・横山大観・竹内栖鳳・幸田露伴らがいる。

昭和 14 年(1939 年)9 月 23 日、東京・下渋谷の自邸で逝去。享年 70。同日付で従三位を授けられた。文化勲章受章からわずか 2 年半の死だった。

青山霊園に眠る

岡田三郎助の墓は、青山霊園 1種イ1号35側 にある。本郷洋画研究所の盟友 藤島武二 の墓も同じ 1種イ1号(31側)にあり、二人の洋画家が並んで青山霊園に眠っている。

同じ佐賀出身者として 大木喬任副島種臣佐野常民 も青山霊園に眠る。明治国家を制度の側で作った先輩たちと、近代日本洋画を絵筆の側で作った後輩が、同じ霊園で眠ることになった。

墓参り写真

  • 墓所 1

    — 墓所 1

墓所の位置

参考資料

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