斎藤 茂吉
さいとう もきち(Saito Mokichi)
| 生没年 | 1882-05-14 〜 1953-02-25 |
|---|---|
| 時代 | 大正・昭和 |
| 分野 | 文化人 |
| 墓所区画 | 1種イ2号15側 |
| タグ | アララギ派 / 短歌 / 精神科医 / 山形県上山 |
近代短歌を頂点に押し上げた歌人
斎藤茂吉は、アララギ派を代表する歌人にして精神科医。歌集『赤光』(大正 2 年/1913 年)で近代短歌に革新をもたらし、生涯で約 17000 首を遺した、近代日本短歌の最高峰の一人である。
明治期、正岡子規が短歌を「写生」の文学として再定義し、伊藤左千夫がそれを引き継いだ。茂吉はその伊藤左千夫に師事し、「写生」をさらに突き詰めて生の根源にまで届かせる歌風を打ち立てた。代表的な連作「死にたまふ母」(『赤光』所収)は、危篤の母を看取りに上山(山形県)へ帰省し、母の死を看取って東京へ戻るまでを 59 首で描いた挽歌である。「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり」 — この一首は、近代日本文学が達した感情の極限を示す名歌として、現代の高校国語教科書にも採録され続けている。
茂吉の歌業は『赤光』(1913 年)、『あらたま』(1921 年)、『つゆじも』『遠遊』『遍歴』『ともしび』『たかはら』『連山』『白桃』『暁紅』『寒雲』『のぼり路』『霜』『小園』『白き山』『つきかげ』と、生涯にわたって 17 冊を超える歌集に結晶した。「写生」を出発点に、象徴・幻想・古典の要素を取り込みつつ、最後まで歌の革新を続けた。
精神科医としても青山脳病院の院長を 1925 年から長年にわたり務め、文学者と医学者の二足の草鞋を貫いた。長男・茂太は精神科医、次男は精神科医・作家の北杜夫(『楡家の人びと』『どくとるマンボウ航海記』の著者)。茂吉が遺した医学者・文学者の家系は、戦後日本のサブカルチャーにまで連なっている。
そして昭和 22 年(1947 年)、文化勲章受章。昭和 28 年(1953 年)2 月 25 日、心臓喘息により死去。享年 70。母を歌った詩人が、自らの死の場所を青山霊園に得て、青山墓地・1種イ2号区画は、近代日本短歌と近代日本政治史(大久保利通)が同じ一画で出会う特別な場所となった。
山形・金瓶の農家から、精神医学者へ
明治 15 年(1882 年)5 月 14 日、山形県南村山郡金瓶村(現・上山市金瓶)に農家・守谷家の三男として生まれる。明治 29 年(1896 年)、上京して同じ郷里出身の医師・斎藤紀一の養子となり、開成中学校・第一高等学校を経て、明治 38 年(1905 年)東京帝国大学医科大学(現・東大医学部)に進学した。
茂吉は医学者として精神医学を専攻すると同時に、在学中の明治 41 年(1908 年)、伊藤左千夫に師事して短歌結社「アララギ」に参加した。「写生」を信条とするアララギ派の中で、茂吉はすぐに頭角を現した。
『赤光』 — 「死にたまふ母」
大正 2 年(1913 年)、第一歌集『赤光』(しゃっこう)を刊行。「赤光」とは仏教用語で阿弥陀如来の光明を指す。茂吉は仏教世界の語彙を歌集の題名に持ち込みつつ、内容は徹底した「写生」 — 目の前の景・物・身体感覚を、平易な日本語の極限で歌い切る作風を貫いた。
『赤光』の白眉は、母の死を看取った経験を歌った連作「死にたまふ母」(全 59 首)である。
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり
危篤の母を看取るために上山へ帰省し、家の梁にとまる燕を見つめながら母の死を感受する、その一瞬を凝縮した一首である。「写生」が単なる客観描写を超え、人生の根源的感情を結晶させる文学になった瞬間 — 近代短歌が達した一つの極点を、この連作が示している。
『赤光』は同時代の文学者に衝撃を与え、芥川龍之介・佐藤春夫・斎藤茂太(息子)らがそれぞれの形で感想を残している。「斎藤茂吉以後、日本の短歌は変わった」 — 近代文学史で繰り返し語られる評価である。
ウィーン留学と青山脳病院
大正 10 年(1921 年)から大正 13 年(1924 年)まで、ヨーロッパに留学。ミュンヘン・ウィーンで精神医学を学んだ。帰国後は養家の青山脳病院(東京都港区)の院長を務めながら、歌人としても精力的に活動を続けた。
青山脳病院は、現代の精神医療の出発期にあたる施設で、茂吉は文学者であると同時に、当時の精神医学の最前線に立つ臨床家でもあった。「歌人にして精神科医」 — その二重性は茂吉のあらゆる歌に独特の透徹した観察眼を与えている。
第二芸術論への反論
昭和 21 年(1946 年)、京都大学教授・桑原武夫が「第二芸術 — 現代俳句について」を『世界』誌に発表し、俳句・短歌は西洋的な意味での「芸術」と呼べないと痛烈に批判した。短歌・俳句界は震撼した。
茂吉はただちに反論を執筆。短歌が持つ独自の感性表現・歴史的厚みを擁護し、桑原の西洋中心主義的判断を批判した。この論争は近代日本文学最大の文芸論争の一つで、戦後短歌・俳句が「芸術として生き残るかどうか」という存亡の議論だった。茂吉の反論は短歌が現代に生き続ける根拠を、説得力を持って示した。
昭和 22 年(1947 年)、文化勲章受章。
青山霊園に眠る
斎藤茂吉の墓は、青山霊園 1種イ2号15側。同じ「1種イ2号」の区画には、明治維新の元勲・大久保利通(同じ「1種イ2号15側」)、白樺派の作家・志賀直哉(1種イ2号11側)が眠る。
維新を駆け抜けた政治家・大久保利通、近代短歌を極めた歌人・斎藤茂吉、近代小説を極めた作家・志賀直哉 — 明治から昭和まで貫いて日本を作った 3 人の偉人が、同じ「1種イ2号」の一画で隣り合っている。
郷里・山形県上山市金瓶には斎藤茂吉記念館があり、生家・自筆資料・「死にたまふ母」の関連史料を多数所蔵している。