志賀 直哉

しが なおや(Shiga Naoya)

志賀 直哉の肖像
志賀 直哉の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
生没年1883-02-20 〜 1971-10-21
時代大正・昭和
分野文化人
墓所区画1種イ2号11側
タグ白樺派 / 文豪 / 小説の神様

「小説の神様」と呼ばれた作家

志賀直哉は、生前から「小説の神様」と呼ばれた、近代日本文学を代表する作家である。同人誌『白樺』(明治 43 年/1910 年創刊)の中心人物として、武者小路実篤・有島武郎・里見弴らとともに白樺派を立ち上げ、大正期日本の文学・思想・美術に決定的な影響を与えた。

代表作『城の崎にて』(大正 6 年/1917 年)、『和解』(同年)、『小僧の神様』(大正 9 年/1920 年)、そして 16 年をかけて完結させた唯一の長編『暗夜行路』(1921-1937 年)。志賀の文体は簡潔・写実・透徹した自然描写を特徴とし、「無駄な一語もない散文の極み」として、後の日本文学が必ず参照すべき到達点となった。

夏目漱石は晩年、志賀の文体を「自分が目指して届かなかったもの」と評したとされ、小林秀雄・井伏鱒二・尾崎一雄・志賀本人を尊敬した網野菊・直哉門下の多数の作家まで、戦後日本文学の「散文の規範」は志賀の文体に発する。「小説の神様」というあだ名は、同業者からの最高の敬意の表れだった。

志賀の文学的影響は文体にとどまらない。「心境小説」(私小説の一系統で、作家自身の心境を中心に据える形式)の確立、「自我の尊重と人間性への信頼」を掲げる白樺派の理想主義、自然と人間の関係を再発見する視線 — 大正デモクラシーから戦後民主主義に至る、日本の「個人」の文学的成立は、志賀直哉なしには存在しなかった。

最晩年は奈良・京都・東京を転居しながら過ごし、戦中も戦後も書き続けた。昭和 46 年(1971 年)10 月 21 日、肺炎により死去。享年 88。明治・大正・昭和を貫いた長寿の作家として、近代日本文学の生き証人だった。

石巻から東京、内村鑑三の影響

明治 16 年(1883 年)2 月 20 日、宮城県牡鹿郡石巻町(現・石巻市)に生まれる。父・直温は第一銀行石巻支店長で、後に総武鉄道・帝国生命保険などの取締役を務めた経済人。直哉が幼くして、一家は東京・本郷に移った。

学習院初等科から高等科までを過ごし、在学中に内村鑑三(キリスト教思想家・無教会主義の創始者)の門下生となった。日露戦争(1904-1905 年)に対する内村の非戦論に強く影響され、社会と倫理に対する関心を培った。明治 39 年(1906 年)に東京帝国大学英文学科に進学、後に国文学科へ転科するも、文学への専念を選び明治 43 年(1910 年)に中退した。

『白樺』 — 武者小路実篤らと共に

明治 43 年(1910 年)、学習院時代からの友人である武者小路実篤・木下利玄・正親町公和・里見弴(志賀の異母弟)らとともに同人誌『白樺』を創刊。白樺派の中心人物として、自我の尊重・人間性への信頼・理想主義を掲げる新しい文学運動を牽引した。

『白樺』はトルストイ・ロダン・セザンヌ・ゴッホ・ゴーギャンらヨーロッパ近代芸術を日本に本格的に紹介した雑誌でもあり、岸田劉生・梅原龍三郎ら大正期日本美術にも決定的な影響を与えた。「白樺派」は単なる文学グループではなく、大正デモクラシー期の文化運動全体を牽引する知的中心だった。

父との和解、そして『城の崎にて』

志賀の父・直温との関係は、若い頃から長く緊張していた。志賀の文学活動を父は理解せず、結婚問題などでも対立を続けた。この対立は、志賀の文学の重要なテーマとなる。短編『大津順吉』『範の犯罪』(初期作)から、長く志賀は父との葛藤を作品化し続けた。

大正 6 年(1917 年)、ついに父との和解が成立。これを直接の素材にした短編『和解』が同年発表された。私小説における「親子の和解」というテーマを、近代日本文学に決定的な形で持ち込んだ作品である。

同年、志賀は山陰の城崎温泉に静養に出かけ、そこで自分が脱線事故に遭った経験(銀座での電車事故、生死の境を彷徨った)の後の心境を描いた短編『城の崎にて』を発表。蜂・鼠・イモリの死を観察しながら自分の生死を見つめ直すこの 8 ページほどの掌編は、日本語の散文が達成した最高傑作の一つとして、現代まで国語教科書に繰り返し採録されている。

『暗夜行路』 — 16 年をかけた唯一の長編

大正 10 年(1921 年)、志賀は唯一の長編小説『暗夜行路』を書き始めた。完結したのは昭和 12 年(1937 年) — 16 年の歳月を費やした。

物語の主人公・時任謙作は、自分が母と祖父の不倫の子(つまり実の父と思っていた人物は祖父)と知り、それを乗り越えて再生する。志賀自身の出生にまつわる事情(父・直温と母・銀の関係、祖父・直道との関係)が投影されたとされ、私小説と本格小説の融合形態として、近代日本文学の達した一つの極点を示している。

「暗夜行路」 — 暗い夜を歩く人生の旅、という題そのものが、近代人の自我の確立過程を見事に象徴している。

奈良・京都の隠遁、戦後の長寿

戦時中は文学活動を一旦控え、奈良・京都・東京を転居しながら過ごした。戦後も執筆を続け、随筆・短編を発表し続けた。

昭和 46 年(1971 年)10 月 21 日、肺炎により死去。享年 88。明治後期から戦後の高度経済成長期まで、日本社会の半世紀以上を見届けた作家の長い生涯が、ここで閉じた。

青山霊園に眠る

志賀直哉の墓は、青山霊園 1種イ2号11側。同じ「1種イ2号」の区画には、明治維新の元勲・大久保利通、近代短歌の最高峰・斎藤茂吉(同じ 15 側)が眠る。

維新を駆け抜けた政治家・大久保、近代短歌を極めた歌人・茂吉、近代小説を極めた作家・直哉 — 明治から昭和まで貫いて日本を作った 3 人の偉人が、同じ「1種イ2号」の一画で隣り合っている。

晩年を過ごした奈良・高畑町の旧居(現「志賀直哉旧居」)は、現存して公開されている。

墓所の位置

同じ区画(1種イ2号)の偉人

参考資料

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