E V E N T

禁門の変(蛤御門の変)


八月十八日の政変で京都を追われた長州藩兵が、藩主父子の冤罪雪辱を訴えて京へ進発。御所周辺で会津・薩摩・桑名兵と銃撃戦となり、蛤御門で激戦の末長州が敗走。長州は朝敵となり、第一次長州征討へ発展した。

Hamaguri rebellion
Hamaguri rebellion Yūzan Mori / Wikimedia Commons / Public domain
日付
カテゴリ
事件

御所に銃声が響いた日

元治元年七月十九日(陽暦 1864 年 8 月 20 日)未明、長州藩兵約二千が三方から京へ進発し、御所周辺で会津・桑名・薩摩を主力とする幕府方諸藩兵と衝突した。激戦は午前中続き、御所の蛤御門(はまぐりごもん)で薩摩兵を率いる西郷吉之助(隆盛)らの援軍が決定的な役割を果たして長州兵を撃退。長州方の指揮官来島又兵衛・久坂玄瑞・真木保臣ら多数が戦死または自刃した。御所に向かって発砲した長州藩は朝敵と認定され、追撃と謹慎を強いられる。「禁門」とは御所の門の総称であり、御所に砲火を浴びせたこの戦闘の重大さを示す呼称である。

背景 — 八月十八日の政変と長州の失地回復運動

事件の遠因は前年の文久三年八月十八日の政変にあった。長州藩と尊王攘夷派公卿(三条実美ら七卿)は、孝明天皇の攘夷親征計画を主導していたが、会津・薩摩を中心とする公武合体派のクーデターで京都から追放され(七卿落ち)、長州は失脚した。京都での発言権を失った長州は、藩主毛利敬親父子の冤罪雪辱と七卿の復権を朝廷に直訴することを企図し、元治元年六月、池田屋事件で同志多数を新撰組に斬殺されたこともあって、武力上洛へ路線を転換した。

経過 — 蛤御門・堺町御門・中立売御門の三方面攻撃

長州兵は来島又兵衛隊(嵯峨天龍寺方面)、福原越後隊(伏見方面)、国司信濃隊(山崎方面)の三隊に分かれ、御所周辺の蛤御門・堺町御門・中立売御門を目指した。会津兵の頑強な抵抗に苦戦する蛤御門方面に、薩摩藩兵を率いる西郷吉之助が乾御門から駆けつけ、来島隊の側面を突いた。来島は銃弾を受けて自刃、久坂玄瑞は鷹司邸内で自刃、真木保臣は天王山に退いて自爆。長州勢は壊滅的な敗北を喫し、京を退却した。この戦闘で火災が発生し、京都市街地の約三万戸が焼失する大火となった(どんどん焼け)。

結果 — 長州征討と維新への助走

朝敵となった長州藩に対し、幕府は二十一藩に長州征討の動員令を発した(第一次長州征討)。長州は外交的孤立に追い込まれ、藩内では佐幕派の俗論党が一時主導権を握り、禁門の変の三家老を切腹させて恭順した。だが俗論党政権はすぐに高杉晋作・桂小五郎ら倒幕派の蜂起で打倒され、藩は再び倒幕路線へ転じる。蛤御門で見せた薩摩と会津の連携は、しかし長続きしなかった。二年後の薩長同盟、三年後の王政復古を見れば明らかなように、ここで結んだ薩会同盟は維新の方位磁石が反転する直前の最後の光景であった。

参考資料

← 事件一覧に戻る