王政復古の大号令
慶応三年十二月九日、薩摩・土佐・芸州・尾張・越前五藩の兵が御所を制圧する中、朝廷は王政復古の大号令を発し、幕府・摂政・関白の制度廃止と三職(総裁・議定・参与)による新政府樹立を宣言。江戸幕府は政治的に完全に終焉した。
御所制圧と同時に発せられた新政府樹立宣言
慶応三年十二月九日(陽暦 1868 年 1 月 3 日)早朝、薩摩・土佐・芸州・尾張・越前の五藩の兵が御所九門を固める中、十五歳の明治天皇の御前で「王政復古の大号令」が発せられた。これにより摂政・関白・征夷大将軍の三職が廃止され、代わりに総裁・議定・参与の三職を中心とする新政府が樹立された。徳川慶喜が二か月前に大政奉還で政権を返上していたとはいえ、徳川家が「議定」として新政府に加わる構想もあった。だがこの大号令は徳川家を新政府から完全に排除する内容であり、続く小御所会議で慶喜の辞官納地が決定され、戊辰戦争への道が開かれた。
背景 — 大政奉還後の権力空白
慶応三年十月十四日、十五代将軍徳川慶喜は土佐藩の建白を受けて大政奉還を上表した。これにより形式上の政権は朝廷に戻ったが、二百六十余年の徳川幕府の行政・軍事機構は存続しており、朝廷側には新政府を実際に運営する能力がなかった。慶喜の構想は、自らが新政府の中心となり徳川家中心の連邦的国家を作ることであった。これに対し薩摩の大久保利通・西郷隆盛、長州の桂小五郎(木戸孝允)、岩倉具視ら討幕派は「徳川家を完全に政権から排除する」ことを目指し、武力クーデターを準備した。
経過 — 小御所会議と辞官納地
王政復古の大号令を受けて同日夜、御所内の小御所で「小御所会議」が開かれた。山内容堂(土佐)は慶喜の出席を主張したが、岩倉具視・大久保利通らは慶喜不在のまま会議を進行させ、慶喜の内大臣辞官と領地の一部返上(辞官納地)を強硬に決議させた。会議の主導権を握ったのは薩摩・長州派と岩倉ら反幕公卿。会議後、容堂・春嶽ら穏健派は徳川家を温存する妥協を模索したが、薩摩は江戸で挑発工作を続け、年末年始の江戸薩摩藩邸焼討事件を機に、慶喜は二条城を出て大坂城へ退き、討薩を決意。一か月後の鳥羽伏見の戦いへ突入した。
影響 — 武家政権の歴史的終焉
王政復古の大号令は、形式上ではなく実質的に徳川幕府を終わらせた点で画期的であった。鎌倉幕府以来約六百八十年続いた武家政権は、この一日で完全に解体された。新政府は十二月二十六日に最初の人事を発令し、有栖川宮熾仁親王を総裁に、議定に皇族・公卿・諸侯、参与に各藩の俊秀を起用した。本霊園に眠る大久保利通は参与の一人として新政府の中枢に座り、廃藩置県・地租改正へと続く近代国家建設の青写真を引いていく。