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河口慧海、ヒマラヤを越えて鎖国チベットに入境


黄檗宗の僧侶・河口慧海が、鎖国状態のチベット王国にヒマラヤを越えて単身潜入。漢人僧を装って国境を越えた、日本人として初のチベット入境を果たした。後のラサ滞在で多数の梵語・チベット語仏典を収集、近代日本のチベット学・密教研究の基礎となる。

河口慧海の肖像(Zaida Ben-Yusuf 撮影)
河口慧海の肖像(Zaida Ben-Yusuf 撮影) Zaida Ben-Yusuf / Wikimedia Commons / Public domain
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日本人初のチベット入境

明治三十三年(一九〇〇)七月四日、黄檗宗(おうばくしゅう)の僧侶・河口慧海(かわぐちえかい)は、ネパール北西のドルポ地方からヒマラヤ山脈の難所を越え、鎖国下にあったチベット王国の領内に単身潜入した。漢人僧を装っての密入境であり、日本人としては記録に残る初の入境者である。チベットの首都ラサに到達したのは翌一九〇一年三月、約一年四ヶ月の滞在中に多数の梵語(サンスクリット)・チベット語仏典原典を収集し、近代日本における仏教学・チベット学・密教研究の基礎を築いた。

背景 — 桶職人の子から仏教学者へ

河口慧海は慶応二年(一八六六)、大阪府堺市の桶職人・河口善吉の長男・定治郎(さだじろう)として生まれた。少年期から学問を志し、井上円了の設立した哲学館(現・東洋大学)を卒業。明治二十三年(一八九〇)に黄檗宗の僧侶となり、京都宇治の黄檗山萬福寺で修行を積んだ。一方で漢訳大蔵経を読み込むうち、漢訳経典には誤訳・意訳・脱落が多く、釈尊本来の教えを理解するには梵語・チベット語の原典に立ち戻る必要があると痛感する。当時、サンスクリット原典の多くは散逸していたが、八世紀以降に組織的にチベット訳された蔵訳大蔵経(カンギュル・テンギュル)は原典に最も忠実であると西欧東洋学者(マックス・ミュラー、サラ・チャンドラ・ダース等)も認めており、慧海はこれを求めてチベット行きを決意した。

鎖国チベットへの長い迂回路

十九世紀末のチベットは第十三世ダライ・ラマ・トゥプテン・ギャツォの統治下にあり、英国・ロシアによる「グレート・ゲーム」の中央アジア争奪の影響で外国人排斥政策を徹底していた。インドからの正規ルートはほぼ閉ざされており、西欧探検家(英国スウェン・ヘディン等)も再三入境を試みては国境警備兵に追い返されていた。慧海は明治三十年(一八九七)六月に神戸を出航、シンガポール経由でカルカッタへ。インド東部ダージリンでチベット語を学びつつ正規ルートを諦め、一八九九年一月にネパールの首都カトマンドゥへ移動。ネパール政府の許可を取りつけ、首都北部のポカラから西へ、人跡まれな山岳地帯ドルポを抜けて国境を目指す迂回路を採った。標高五千メートル級の峠を雪中で越え、一九〇〇年七月四日にチベット領クン・ラ峠を越境。漢人僧を装って入境した。

ラサ到着・約 14 ヶ月の滞在

国境を越えた後も慧海はマナサロワール湖・カイラス山などの霊地を巡礼しつつ東進、一九〇一年三月二十一日にラサ到着。チベット仏教の最高学府セラ寺に入って学僧として研鑽を積みつつ、第十三世ダライ・ラマやチベット政府高官とも面会した。流暢なチベット語と医薬の知識(東洋医学・西洋医学双方の素養があった)で「中国・四川の名医僧」として歓迎され、政府上層部とも親交を得る。ラサ滞在中、サンスクリット梵本写本・チベット訳大蔵経の貴重写本・密教儀軌・チベット医学書など膨大な仏典資料を収集した。しかし一九〇二年五月、日本人であることが英印情報筋経由で露見しはじめ、身辺の危険を察した慧海は脱出を決意。同年六月に密かにラサを出てインドに帰国した。

帰国後 — 『西蔵旅行記』と近代日本のチベット学

明治三十六年(一九〇三)五月に帰国した慧海は、東京で当時のジャーナリスト・徳富蘇峰の支援を受け、新聞連載をもとに『西蔵旅行記』(にしぞうりょこうき、一九〇四年、博文館)を刊行。チベットの政治・宗教・社会・地理を実体験から綴った当時唯一の本格的チベット見聞録としてベストセラーとなり、英訳版(一九〇九)は西欧チベット学界でも参照された。スウェン・ヘディンら西欧探検家がチベット内部に到達できなかった同時期に、東洋人として独力で潜入・滞在・脱出を果たした事跡は世界的に高く評価される。

第二次入蔵と晩年の学究生活

慧海は大正二年(一九一三)から大正四年(一九一五)にかけて第二次入蔵を果たし、追加でチベット訳仏典を収集した。帰国後は宗門を離れ在家となり、東京大学・大正大学・東洋大学等で梵語・チベット語仏典学の講義を担当。チベット語辞典編纂や仏典校訂を晩年まで続けた。昭和二十年(一九四五)二月二十四日東京で死去、本霊園に葬られた。慧海が将来した経典群は東洋文庫・東北大学・大谷大学に収蔵され、現代に至るまで日本の梵語学・チベット学研究の最重要史料となっている。

参考資料

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