河口 慧海 (1866-1945)の肖像
河口 慧海の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

河口 慧海

かわぐち えかい

Kawaguchi Ekai

日本人として初めてチベットに入境した黄檗宗の僧侶・探検家。『西蔵旅行記』で近代日本のチベット学・密教研究の礎を築いた。

生没年
出身地
摂津国大阪堺(現・大阪府堺市)
死没地
東京都
時代
明治・大正
役職
仏教僧・探検家・チベット学者
出身校
哲学館(現・東洋大学)
区画
1種ロ15号5・6側
タグ
チベット / 仏教 / 探検家 / 黄檗宗 / 西蔵旅行記 / サンスクリット

鎖国のチベットへ単身潜入した僧侶

河口慧海は、日本人として初めてチベットに入境した黄檗宗の僧侶であり、近代日本のチベット学・梵語仏典研究の礎を築いた探検家である。鎖国状態にあったチベットへ漢人僧を装って単身ヒマラヤを越え、ラサに約 14 ヶ月滞在してサンスクリット・チベット語の仏典写本を持ち帰った人物として、明治の精神史に特異な位置を占めている。

慧海が生きた明治期、日本仏教は廃仏毀釈で打撃を受けた直後で、教団としての立て直しと同時に、教義の原点をどう取り戻すかが問われていた。漢訳経典で学ばれてきた仏教を、より原典に近い形 — サンスクリット原典・チベット訳大蔵経 — で読み直したいという要求が、若い学僧の間に広がっていた。慧海はその要求を、誰も実行できなかった「チベットへ自ら行く」という形で果たした。

明治 33 年(1900 年)7 月、初入蔵。当時のチベットは外国人の入境を厳しく禁じており、英国・ロシアの探検家も悉く跳ね返されていた。慧海はその境界を、僧侶として、徒歩で、単独で越えた。彼の旅行記『西蔵旅行記』(1904 年)はベストセラーとなり、後の日本のチベット学・密教研究はすべてここから出発する。

大阪堺の桶職人の家から、哲学館へ

慶応 2 年(1866 年)、摂津国大阪堺(現・大阪府堺市)の桶職人・河口善吉の長男として生まれる。幼名・定治郎。少年時代から学問への関心が強く、家業を継がず仏門に入ることを志した。

上京して井上円了の哲学館(現・東洋大学)に学び、その後黄檗宗の僧侶となる。五百羅漢寺の住職を務めるなど僧侶として歩み始めるが、漢訳仏典への疑問が次第に深まっていく。「漢訳は重訳の重訳で、釈尊の真意からどれほど遠ざかっているか分からない」 — 原典に直接当たるしかないと考えた慧海は、サンスクリット原典とチベット訳大蔵経に注目し、ついに「自分でチベットへ行って取ってこよう」という途方もない計画に到達した。

第一次入蔵 — ヒマラヤを越えてラサへ

明治 30 年(1897 年)、神戸を出航してインドへ渡る。ダージリンでチベット語を学び、ネパールへ移ってさらに準備を重ねた。ネパール北部のチャラン村で約 1 年滞在し、土地の僧侶からチベット文化を学びながら入境のルートを探った。

明治 33 年(1900 年)7 月、ネパール側からヒマラヤを越え、人跡稀な西方ルートでチベット国境を突破。漢人巡礼僧を装い、白巌窟(ハクガンクツ)で一冬を越したのち、聖地カイラス山を巡礼し、明治 34 年(1901 年)3 月、ついに首都ラサに到達した。日本人として史上初の入境である。

ラサではセラ寺で医僧として滞在し、ダライ・ラマ十三世にも謁見した。約 14 ヶ月の滞在中、サンスクリット・チベット語の仏典写本・経籍・仏像・植物標本を膨大に蒐集。明治 35 年(1902 年)、身元が発覚する直前に脱出。インド経由で明治 36 年(1903 年)に帰国した。

『西蔵旅行記』とその後

帰国直後の明治 37 年(1904 年)、新聞「時事新報」に旅行記の連載が始まり、博文館より『西蔵旅行記』として刊行された。鎖国チベットの内側を生々しく描いた本書はたちまちベストセラーとなり、明治の読書界に大きな衝撃を与えた。英訳版 “Three Years in Tibet”(1909 年)も出版され、海外の東洋学者にも広く読まれた。

その後も慧海はチベット研究を続け、大正 2 年(1913 年)から大正 4 年(1915 年)にかけて第二次入蔵を敢行。第一次で持ち帰れなかった大蔵経の完本セットなどを追加で蒐集した。持ち帰った膨大な仏典・文物は東京大学・東北大学・東洋文庫等に収蔵され、現在も研究の基礎史料として用いられている。後に還俗して在家仏教者となり、大正大学教授としてチベット語訳大蔵経の研究・翻訳に晩年を捧げた。

空襲下の最期

昭和 20 年(1945 年)2 月 24 日、東京都内の自宅で死去。享年 80(満 79 歳)。東京大空襲(同年 3 月 10 日)の直前で、戦時下の窮乏のなかでの静かな死だった。ラサからもたらした膨大な仏典の翻訳・整理を最後まで続けていたという。生涯独身を貫き、僧侶として始まった一生を、在家のチベット学者として閉じた。

青山霊園に眠る

河口慧海の墓は、青山霊園 1種ロ15号5・6側。鎖国チベットの内側を初めて日本人に伝えた探検僧の眠る一画である。

明治の青山霊園には、世界の最前線へ単身で踏み込んだ学究が複数眠っている。コッホに学んで細菌学を切り拓いた北里柴三郎、近代日本の社会・思想を独自に編んだ三宅雪嶺、林学・造園学を体系化した本多静六 — いずれも明治の知性が世界に開いた窓であり、慧海もまた仏教思想の世界において同じ役割を担った。

墓参り写真

  • 墓所

    — 墓所

墓所の位置

関与した事件

参考資料

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