日比谷公園開園(日本初の洋風近代公園)
東京・日比谷に日本初の洋風近代公園が開園。本多静六(東京帝大林学博士)の設計による、桜田濠跡を生かした十六ヘクタールの都市公園で、明治日本の文明開化と都市計画の象徴的事業として位置付けられた。
日本初の洋風近代公園
明治三十六年(一九〇三)六月一日、東京・麹町区(現・千代田区)日比谷に「日比谷公園」が開園した。面積約十六ヘクタール、桜田濠跡と旧大名屋敷地・日比谷練兵場跡地を一体化した都市公園であり、日本人の手による初の本格的な洋風近代公園として記念碑的な位置を占める。設計は東京帝国大学農科大学助教授・本多静六(林学博士)。芝生・花壇・噴水・野外音楽堂・洋食レストランを備えた近代公園のテンプレートは、本園を起点として全国に波及した。
開園に至る経緯
公園化の構想は明治二十年代に遡る。旧幕時代に大名屋敷地・薩摩藩中屋敷であった日比谷一帯は、明治新政府が陸軍練兵場として接収していたが、土壌が軟弱で軍用地に不適と判明したため、明治二十六年(一八九三)に公園化が決定された。当初は辰野金吾・松崎万長らの設計案が検討されたものの実現せず、東京市は造園技師の長岡安平、続いて林学者の本多静六に設計を委託した。本多はドイツ・ミュンヘン大学留学からの帰国直後で、欧州都市公園の理論と実例を最新の知見として持ち帰っていた人物であった。
本多静六と西洋公園理論の導入
本多はドイツで都市公園・森林公園の体系を学び、特にミュンヘンの英国庭園(イングリッシャー・ガルテン)やヴェルサイユの整形式庭園を実地で観察していた。日比谷公園の設計では、整形式の第一花壇と自然風景式の樹林帯を組み合わせ、東洋の伝統的な日本庭園(雲形池の心字池形式)も併存させる折衷案を採用した。これは「西洋公園を日本に移植する」のではなく、「日本人の生活様式に適合した近代公園を新たに作る」という本多の思想の表現であった。
主要施設と東京市民の体験
開園時に整備された主要施設は、第一花壇(整形式洋風花壇)・雲形池の鶴の噴水(日本最古の西洋式噴水の一つ)・大音楽堂(後の野外音楽堂の前身)・洋食レストラン「松本楼」(同年開店)・テニスコート・ベンチ群などである。それまで日本人にとって「公共の場で芝生に寝そべる」「噴水を眺めながらコーヒーを飲む」という体験は無縁であり、本園は東京市民が初めて触れる西洋型公共空間として大きな衝撃を与えた。皇居前広場と隣接する立地もあいまって、政治集会・労働者大会の場としても利用された(一九〇五年の日比谷焼打事件など)。
全国への波及と現代の意義
本多はその後、大宮公園・福岡大濠公園・北海道大沼公園・宮崎神宮神苑・明治神宮内苑など全国百数十ヶ所の公園・神苑設計を手がけ、日本の近代造園を一人で牽引した。日比谷公園で確立された設計手法は「本多式公園」として全国の都市公園に波及し、関東大震災(一九二三)後の帝都復興計画では「公園は避難地・防火帯としても不可欠」との認識が政府レベルで定着した。現代の日比谷公園は霞ヶ関官庁街と銀座の谷間にあって、政治集会・園遊会・ガーデニングショウなど多様な機能を担い続けており、開園から百二十年余を経た今もなお東京の心臓部で機能する稀有な近代公園として価値を高めている。