本多 静六
ほんだ せいろく
Honda Seiroku
日本初の林学博士。日比谷公園・明治神宮の森を設計し、「月給4分の1天引き貯金」で巨額の資産を築き全額寄付した実践派学者。
日比谷公園と明治神宮の森を設計した男
本多静六は、明治から昭和初期にかけての林学者・公園設計者。日本初の林学博士、東京帝国大学農学部教授として、日比谷公園(1903 年開園)・大宮公園・福岡大濠公園・北海道大沼公園など全国各地の公園を設計し、さらに明治神宮内苑の永久人工林造成計画を立案した、近代日本の都市緑地を作った張本人である。
明治の東京は急激な都市化のさなかにあり、市民が憩える緑地はほぼ存在しなかった。本多が設計した日比谷公園は、日本初の本格的な洋風近代公園として東京の中心に出現し、以後の日本の都市公園のひな型となった。明治神宮の森に至っては、150 年後の極相林を予測した本多式の混交林設計が見事に的中し、現代の都心 70 ヘクタールの鬱蒼たる人工林として実現している。100 年スケールで都市の風景を作るというスケールの仕事を実現できた数少ない近代日本人である。
さらに本多は学者でありながら、生涯を通じて「月給 4 分の 1 天引き貯金法」を実践し、株式・山林への分散投資で巨額の資産を築いた。退官時の資産は当時の 370 万円(現代価値で約 100 億円超とも言われる)に達したが、そのほぼ全額を匿名で公共事業・教育機関に寄付した。学問・実業・公益を一身で体現した稀有な人物である。
武蔵国埼玉郡の貧農から林学博士へ
慶応 2 年(1866 年)7 月 2 日(新暦 8 月 11 日)、武蔵国埼玉郡河原井村(現・埼玉県久喜市菖蒲町河原井)の貧しい農家の六男として生まれる。本多家への養子に入り苦学を重ねた。
明治 17 年(1884 年)、東京山林学校(後の東京農林学校、現・東京農工大学)に入学。在学中は極貧で、井戸の水を飲んで空腹をしのぎながら勉学を続けたと自伝に記している。明治 23 年(1890 年)、首席で帝国大学農科大学(東京農林学校が合併された組織、現・東京大学農学部)を卒業した。
その後、政府派遣留学生としてドイツに渡り、ミュンヘン大学・ターランド林学校で林学を修めた。明治 25 年(1892 年)、林学博士の学位を取得 — 日本人初の林学博士の誕生である。帰国後すぐに東京帝国大学農科大学助教授、後に教授となり、定年退官の昭和 2 年(1927 年)まで 35 年間にわたって日本の林学・造園学を牽引した。
日比谷公園 — 日本初の洋風近代公園
明治政府は、欧米都市にあるような市民公園を東京中心部に設けようと、旧陸軍練兵場跡地に「日比谷公園」を計画した。設計の責任者として指名されたのが、当時 30 代の本多静六である。
本多は欧州留学で学んだドイツ式・フランス式の公園設計を参照しつつ、日本の気候と都市性に合わせた独自のレイアウトを練り上げた。明治 36 年(1903 年)、日比谷公園は開園。中央に大噴水、芝生広場、洋風花壇、池、音楽堂、テニスコート、図書館、レストラン(松本楼)を備え、東京市民が初めて経験する「近代洋風公園」として圧倒的な反響を呼んだ。
開園後、日比谷公園は政治集会・国民大会の舞台にもなり、明治 38 年(1905 年)のポーツマス条約反対の日比谷焼打事件をはじめ、近代日本の世論形成の物理的な舞台ともなった。本多の仕事は、緑地という物理空間が都市に何をもたらすかを、東京を実験場として証明したのである。
明治神宮の森 — 100 年後を見通した永久人工林
大正 4 年(1915 年)、明治天皇を祀る明治神宮の造営にあたり、内苑の森林設計を本多が中心となって担当した。代々木の旧南豊島御料地は元来は雑木林と農地で、神社の森にふさわしい鬱蒼たる原生林状の景観はなかった。
本多と同僚の本郷高徳・上原敬二は、150 年スケールで自然に極相林化する人工林を作る計画を立案した。当初はマツ・ヒノキを多く植える伝統案も検討されたが、本多らは「東京の気候・土壌では最終的に常緑広葉樹のシイ・カシ・クスノキが優占する」と予測し、針葉樹を初期植栽として広葉樹を主体に据える混交林設計を採用した。全国から献木 10 万本が集められ、青年団がボランティアで植樹した。
本多らの予測は的中した。100 年後の現在、明治神宮の森は当初の予測通り、シイ・カシ・クスノキを優占種とする極相林に近い姿に成熟し、都心 70 ヘクタールに 3000 種を超える生物が生息する自然林となっている。「人間が 100 年後の自然を設計できるか」という壮大な実験の成功例として、世界の都市林業研究者から今も注目され続けている。
月給 4 分の 1 天引き貯金と 100 億円の寄付
本多の名を後世に伝えるもう一つの仕事は、個人資産形成の実践とその大衆向け著述である。本多は若いころから「月給 4 分の 1 天引き貯金法」を実践し、収入が増えても生活水準を上げず、余剰金をすべて株式・山林・債券に分散投資した。
退官時の資産は当時の金額で約 370 万円(現代価値では数十億円から 100 億円超とも試算される)。本多はそれをほぼ全額、教育機関・公共事業に匿名で寄付した。「金は使うために貯めるのではなく、社会のために役立てるために貯める」が本多の信条だった。
晩年に書いた『私の財産告白』『私の生活流儀』(昭和 25 年/1950 年)はベストセラーとなり、戦後日本人の家計術・倹約術の古典として、現代でも繰り返し版を重ねている。学者でありながら経済人としても結果を出し、その全てを公益に還元した — 近代日本でほぼ唯一無二の生涯である。
福岡で死去、享年 85
昭和 27 年(1952 年)1 月 29 日、福岡県で死去。享年 85。長寿を全うし、晩年まで著述活動を続け、健康法・人生訓・財産論の本を何冊も世に送り出してから世を去った。
日比谷公園で東京の風景を作り、明治神宮の森で 100 年後の自然を設計し、月給 4 分の 1 天引きで巨額資産を築いてその全てを寄付した — どれ一つを取っても傑出した人生の三本柱を、本多は一身で実現した。
青山霊園に眠る
本多静六の墓は、青山霊園 1種イ16号30側。日本の都市公園と神社林の風景を、生涯をかけて設計した男が、明治日本を作った同時代人たちと同じ青山の一画に眠っている。
本多が設計した日比谷公園・明治神宮はいずれも都心にあり、青山霊園からも徒歩・地下鉄圏内で訪ねられる。本多の墓参の後、明治神宮の森の鬱蒼たる樹冠を見上げ、日比谷公園の大噴水のそばで休む — 設計者の手仕事を都市そのもので追体験できる、稀有な巡礼ルートが成り立つ。故郷の埼玉県久喜市菖蒲町には本多静六記念館もあり、「月給 4 分の 1 天引き貯金」を生んだ少年時代の貧苦と精進を、現地で辿ることもできる。




