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硫黄島の戦い(西竹一戦死)


ロサンゼルス五輪馬術金メダリスト「バロン西」こと西竹一中佐が硫黄島で戦死。米軍も「あの西なら投降を呼びかけよ」と特別待遇した名将の最期。

Raising the Flag on Iwo Jima, by Joe Rosenthal
Raising the Flag on Iwo Jima, by Joe Rosenthal Joe Rosenthal / Wikimedia Commons / Public domain
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戦争

ロサンゼルスから硫黄島へ — オリンピアンの最期

硫黄島の戦い(Iwo Jima Campaign)は、昭和 20 年(1945 年)2 月 19 日から 3 月 26 日まで、小笠原諸島の硫黄島で日米両軍が戦った 36 日間の地上戦である。日本軍は栗林忠道中将を司令官とする小笠原兵団 2 万 1,000 名、米軍は海兵隊 3 個師団 7 万 5,000 名を中心とする上陸部隊。

戦闘は地下要塞化された日本軍陣地と米海兵隊との消耗戦となり、日本軍はほぼ全滅(戦死約 2 万名、捕虜 1,083 名)、米軍も戦死約 7,000 名・負傷約 2 万名という太平洋戦争で最も激しい上陸戦の一つとなった。3 月 26 日、栗林中将は最後の総攻撃を指揮して戦死、組織的戦闘が終結した。

この戦いで戦死した日本軍指揮官の中に、戦車第 26 連隊長・西竹一陸軍中佐がいた。昭和 7 年(1932 年)ロサンゼルスオリンピック馬術大障害飛越競技でアジア人初の馬術金メダルを獲得した「バロン西」 — 米国上流社会から愛され、チャップリンらと交友を結んだ華族士官である。米軍は戦闘の只中、拡声器で「バロン西、降伏したまえ。ロサンゼルスの友人たちが君の生還を待っている」と呼びかけたと伝わる。だが西からの応答はなく、3 月 21 日から 22 日にかけて自決もしくは戦闘中に死亡したと推定されている。享年 42。

背景 — 本土爆撃の中継基地

硫黄島が決戦地となった理由は、その地理的位置にある。マリアナ諸島(サイパン・テニアン・グアム)から本土に向かう B-29 爆撃機にとって、ちょうど中間地点に当たる硫黄島は、緊急着陸基地・護衛戦闘機の発進基地として絶対に必要な島であった。逆に日本側にとっては、B-29 の中継を妨害できる唯一の前進拠点であった。

昭和 19 年(1944 年)6 月、サイパン陥落の直後に大本営は硫黄島の防衛強化を決定。同年 6 月 8 日、栗林忠道中将が小笠原兵団司令官として着任した。栗林は米国駐在経験のあるエリート騎兵将校で、米国の物量を冷静に評価し、「水際撃滅」(上陸時に海岸線で殲滅)を捨てて「内陸持久戦」(地下要塞からの徹底抗戦)に戦術を切り替えた。摺鉢山(すりばちやま)・元山地区・北部丘陵に総延長 18 キロに及ぶ地下坑道と無数のトーチカが構築された。

戦車第 26 連隊長・西竹一中佐の着任は昭和 19 年 6 月。だが彼の連隊を載せた輸送船「日秀丸」は途中で米潜水艦に撃沈され、連隊の大半の戦車を喪失。西と連隊兵員のみが硫黄島に渡った。残された戦車わずか 22 両を、西は岩盤地下にトーチカ化して配置するという、機甲将校としては前代未聞の戦法を選んだ。「戦車をモグラにする」と評された苦渋の戦術である。

昭和 20 年 2 月 19 日 — 上陸開始

昭和 20 年 2 月 16 日から、米海軍機動部隊と艦砲射撃が硫黄島を 3 日間にわたって叩いた。だが地下要塞は破壊できず、日本軍の人的損害は限定的だった。

2 月 19 日午前 9 時、米海兵第 4・第 5 師団が南海岸に上陸。栗林は「水際で撃たせるな」の命令を徹底し、米軍が内陸に進出した段階で地下陣地から一斉射撃を開始した。米軍は上陸日に 2,400 名以上の死傷者を出した。

2 月 23 日午前 10 時 20 分、米海兵隊員 6 名が摺鉢山頂上に星条旗を掲揚。AP 通信のカメラマン、ジョー・ローゼンタールが撮影した「擂鉢山の星条旗」(Raising the Flag on Iwo Jima)は太平洋戦争を象徴する報道写真となり、戦後の海兵隊戦争記念碑のモデルとなった。だが戦闘はその後 1 か月続く。

西竹一の最期 — 3 月 21 - 22 日

西竹一の戦車第 26 連隊は、元山地区の地下陣地に潜んで米軍に持久戦を強いた。連隊は徐々に消耗し、3 月中旬には壊滅状態となる。

戦闘の只中、米軍は拡声器を使って日本軍将兵に投降を呼びかけたが、西に対しては特別に「バロン西、聞こえるか。我々はあなたを知っている。ロサンゼルスのフェアバンクス、チャップリンらの友人たちが君の生還を待っている。降伏したまえ」と日本語と英語で繰り返した、と複数の証言が残る。米海兵隊司令部はオリンピック金メダリストの存在を把握しており、彼を生かして連れ帰ろうとしていた。

だが西は応えなかった。3 月 17 日に栗林司令部から「最後の総攻撃」の指令が出され、西は連隊残存兵を率いて戦闘を継続。3 月 21 日から 22 日にかけて、自決もしくは戦闘中に死亡したと推定されている。最期の状況は判然とせず、遺骨も還っていない。

3 月 26 日早朝、栗林中将は約 400 名の残存兵を率いて最後の総攻撃を敢行し、米軍陣地で戦死。組織的戦闘は終結した。

歴史的影響

  1. 米軍の本土上陸戦略への影響 — 硫黄島での米軍損害(戦死約 7,000 名・負傷約 2 万名)は、米軍指導部に「本土上陸では数十万単位の損害が出る」との見積もりを与えた。これがダウンフォール作戦(本土上陸)中止の判断と原爆使用決定に影響したとの議論が、戦後一貫して続いている。

  2. 「擂鉢山の星条旗」の文化的記憶 — 摺鉢山頂上で星条旗を掲げる海兵隊員の写真は、米国で勝利と犠牲を象徴する報道写真として記念碑化された。ワシントン D.C. のアーリントン国立墓地に隣接する海兵隊戦争記念碑(1954 年除幕)のモデルとなり、現在も米国の戦争記憶の中核に位置する。

  3. 栗林忠道の戦術評価 — 栗林の「水際撃滅から内陸持久戦への戦術転換」は、戦後の米軍内部でも高く評価された。「日本軍が初めから内陸持久戦を取っていたら、太平洋戦争の様相は違っていた」との米軍研究もある。栗林の遺骨も還っておらず、栗林家への遺品は栗林直筆の「いとし子」への手紙のみとなった。

  4. 西竹一の象徴性 — オリンピック金メダリストが戦場で散ったという物語は、戦前日本のスポーツ・国際社交・軍人としての三層を生きた華族士官の象徴として記憶されている。クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』(2006 年)で伊原剛志が西を演じ、戦後 60 年経って国際的に再発見された。

関連する偉人とその役割

西 竹一(陸軍中佐 / 戦車第 26 連隊長 / ロサンゼルス五輪馬術金メダリスト)

東京・麻布の華族・西徳二郎男爵家に生まれ、学習院・陸軍士官学校(36 期、騎兵科)を経て陸軍騎兵将校に。昭和 5 年(1930 年)にイタリア・ピネロロの騎兵学校に留学、欧州の最先端馬術を体得した。昭和 7 年(1932 年)、ロサンゼルスオリンピック馬術大障害飛越競技で愛馬ウラヌスと組んでアジア人初の馬術金メダル獲得。米国社交界では「バロン西」として愛され、チャップリン・フェアバンクスら大スターとの交友で知られた。

陸軍内では機械化への転換期に騎兵から戦車兵へ転じ、昭和 19 年に戦車第 26 連隊長として硫黄島に派遣された。連隊戦車の大半を輸送船と共に喪失し、残存戦車を地下にトーチカ化するという機甲将校としては前代未聞の戦法で抗戦。米軍からの投降呼びかけにも応えず、3 月 21 - 22 日に戦死(自決説もあり)。享年 42。遺骨は還らず、本霊園 1種イ 8 号 3 側の墓には愛馬ウラヌスの遺骨とロサンゼルス五輪金メダルの拓本が納められていると伝わる。

関連する作品

  • 映画『硫黄島からの手紙』(2006 年、クリント・イーストウッド監督) — 渡辺謙が栗林忠道、伊原剛志が西竹一を演じる。日本軍視点の硫黄島の戦いを描き、第 79 回アカデミー賞音響編集賞受賞
  • 映画『父親たちの星条旗』(2006 年、クリント・イーストウッド監督) — 同じ硫黄島の戦いを米海兵隊視点から描いた姉妹編。「擂鉢山の星条旗」の写真を巡る戦後の物語
  • 梯久美子『散るぞ悲しき — 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮文庫、2008 年) — 第 37 回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。栗林の家族への手紙を中心に硫黄島の戦いを再構成
  • 児島襄『太平洋戦争』(中公新書)硫黄島の章 — 軍事史的記述の定本

硫黄島は現在、海上自衛隊・航空自衛隊の硫黄島基地となっており、一般人の上陸はできない。毎年 3 月、日米合同慰霊祭が「擂鉢山」の麓で開催され、両軍戦死者を共に追悼している。

参考資料

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