西 竹一 (1902-1945)の肖像
西 竹一の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

西 竹一

にし たけいち

Nishi Takeichi

ロサンゼルス五輪馬術障害飛越競技金メダリスト「バロン西」。男爵・陸軍中佐として戦車連隊を率い、硫黄島で散った国民的英雄。

生没年
出身地
東京府東京市麻布(現・東京都港区)
死没地
硫黄島
時代
大正・昭和
役職
陸軍中佐
爵位
男爵
出身校
学習院 / 陸軍士官学校 / イタリア・ピネロロ騎兵学校
受勲
金メダル(ロサンゼルスオリンピック馬術大障害飛越競技)
区画
1種イ8号3側
タグ
ロサンゼルスオリンピック / 馬術金メダル / バロン西 / 硫黄島 / 男爵

「バロン西」 — オリンピック馬術金メダリスト、硫黄島に散る

西竹一は、昭和 7 年(1932 年)の ロサンゼルスオリンピック馬術大障害飛越競技で、愛馬 「ウラヌス」と組んで アジア人初の馬術金メダルを獲得した男爵である。

身長 175cm、長身に貴族的な気品、流暢な英語を操る社交家。米国上流社会から 「バロン西(Baron Nishi)」として愛され、ロサンゼルスで大スターとなった。

太平洋戦争では戦車第 26 連隊長として 硫黄島に派遣され、昭和 20 年(1945 年)3 月、栗林忠道中将の指揮下で戦死(あるいは自決)した。享年 42。

「競技場で金メダルを掲げた英雄が、12 年後に硫黄島で果てた」 — 西竹一の人生は、戦前から戦中までの日本がたどった軌跡そのものを、たった一人の人物の生涯に圧縮している。

男爵家の三男、学習院から陸軍へ

明治 35 年(1902 年)7 月 12 日、東京・麻布で生まれる。父は外務官僚出身の 西徳二郎(男爵、駐露公使・外相を歴任)、母は岩崎家(三菱財閥)に縁の深い富裕な家柄。西家は明治期に男爵を授けられた華族であり、竹一は典型的な華族令息として育った。

学習院初等科・中等科・高等科を経て、家の伝統に倣って 陸軍士官学校(36 期)に進学。騎兵科を志望し、大正 13 年(1924 年)に卒業。騎兵少尉として 騎兵第 1 連隊(現・赤坂駐屯地)に配属された。

馬術への才能は陸軍内でも飛び抜けており、昭和 5 年(1930 年)、イタリア・ピネロロの 「騎兵学校」に留学。欧州の最先端馬術を体得した。

昭和 7 年、ロサンゼルス五輪で金メダル

昭和 7 年(1932 年)、第 10 回 ロサンゼルスオリンピックに日本選手団の一員として出場。種目は 馬術大障害飛越競技(プリ・デ・ナシオン)。

愛馬 ウラヌスは西自身が私財を投じてイタリアで購入した、当時 12 歳のサラブレッド系大型馬。「ウラヌスは私の戦友だ」と公言してはばからない西の人馬一体ぶりは、ロサンゼルスで早くから評判となった。

決勝の 8 月 14 日、西は他のすべての選手が大障害で落馬・反則を重ねる中、ウラヌスとともに完璧な走行を披露し、金メダルを獲得。日本馬術界が初めて獲った、そしてアジア人として初の、馬術競技の金メダルであった。

ロサンゼルスの社交界では 「バロン西」として連日歓迎された。チャップリン・ダグラス・フェアバンクスら米映画スターが西との交友を求め、英米マスコミは「東洋から来た貴公子」と讃えた。戦前日本のスポーツ史で最も国際的な大衆英雄は西だったと言ってよい。

ロサンゼルス五輪後 — 軍人生活と馬

昭和 11 年(1936 年)のベルリンオリンピックにも出場、決勝で落馬し惜しくもメダルを逃した。

昭和 12 年(1937 年)、父・徳二郎の死により 男爵を襲爵。陸軍では騎兵将校としてキャリアを積み、騎兵学校教官・騎兵第 16 連隊長などを歴任した。

太平洋戦争の開戦時、西は陸軍中佐。戦争が激化する昭和 19 年(1944 年)、陸軍は機械化への移行を進めており、騎兵連隊は 戦車連隊に再編される。西は 戦車第 26 連隊長として、新編制の連隊を率いることになった。

硫黄島 — 「バロン、降伏したまえ」の伝説

昭和 19 年(1944 年)6 月、西は戦車第 26 連隊を率いて 硫黄島に向かった。同島は本土防衛の最後の壁として、栗林忠道中将のもとで地下要塞化が進められていた。

しかし戦車を載せた輸送船「日秀丸」は途中で米潜水艦に撃沈され、連隊のほぼ全戦車を喪失。西と連隊兵員のみが硫黄島に渡った。残された戦車わずか 22 両を、西は岩盤地下にトーチカ化して配置するという、機甲将校としては前代未聞の戦法を選んだ。

昭和 20 年(1945 年)2 月 19 日、米海兵隊の上陸作戦が始まる。地下壕に潜んだ日本軍は、米軍に絶望的な消耗戦を強いた。

戦闘の只中、米軍は拡声器で日本語と英語で「バロン西、聞こえるか。降伏したまえ。ロサンゼルスの友人たちが君の生還を待っている」と呼びかけたと伝わる。米軍はかつての五輪金メダリストの存在を把握し、彼を生かして連れ帰ろうとしていた。だが西からの応答はなかった。

昭和 20 年 3 月 22 日 — 硫黄島で散る

昭和 20 年(1945 年)3 月 17 日、栗林司令部から「最後の総攻撃」の指令が出る。連隊壊滅後の西の最期は諸説あるが、3 月 21 日から 22 日にかけて、自決もしくは戦闘中に死亡したと推定されている。享年 42。遺骨は還っていない。

愛馬ウラヌスは硫黄島渡航前に陸軍習志野学校に残された。西の戦死を知らないまま、終戦直前まで生き延びたという。

親族の著名人

逸話・エピソード

チャップリンと夜更けまで — ロサンゼルスの社交

ロサンゼルス五輪での金メダル獲得後、西はチャップリン、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードら米映画スターから連日邸宅に招かれた。流暢な英語、堂々たる長身、貴族的な所作 — 米国上流社会は「これがサムライの息子か」と熱狂した。チャップリンとは特に意気投合し、夜更けまで馬と映画について語り合った夜があったと伝わる。

帰国後の西は、米国時代の交友を生涯大切にした。日米開戦の昭和 16 年(1941 年)、ロサンゼルス時代の友人から書簡が届いたが、軍人として返事を出すことは叶わなかった。「バロン西を覚えているか」 — 4 年後、硫黄島の地下壕に米軍が拡声器で呼びかけた「降伏勧告」は、その友人たちの記憶の延長線上にあったとされる。

ウラヌス — 硫黄島に連れて行けなかった愛馬

愛馬ウラヌスは、西が私財を投じてイタリアで購入した大型馬で、ロサンゼルス五輪の金メダルを共に獲った「戦友」だった。「ウラヌスは私の半身」と西は公言してはばからず、軍務の合間に厩舎に通って自ら世話を続けた。

昭和 19 年(1944 年)、硫黄島へ向かう直前、西はウラヌスを陸軍習志野学校に預けた。「お前は連れていけぬ」 — そう声をかけて別れたと、戦友の回想に残る。西の戦死を知らないままウラヌスは終戦直前まで生き、馬齢を全うした。遺骨の還らない西の墓には、このウラヌスの遺骨が納められたと伝わる。馬術の道で結ばれた人馬の絆が、墓所の中で再び一つになった話として、愛馬家・馬術関係者の間で今も語り継がれている。

青山霊園に眠る

西竹一の墓は、青山霊園 1種イ8号3側。遺骨は還っていないため、墓には愛馬ウラヌスの遺骨と、ロサンゼルス五輪の金メダルの拓本が納められていると伝わる。

「ロサンゼルスから硫黄島へ」 — その軌跡を一人で歩いた男爵が、青山霊園の静かな一角に眠っている。

墓参り写真

  • 墓所

    — 墓所

墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

← 偉人一覧に戻る