中村 歌右衛門(六代目)
なかむら うたえもん(ろくだいめ)
Nakamura Utaemon VI
戦後歌舞伎を代表する女形の最高峰。生涯を真女形として過ごし、人間国宝・文化勲章を受章。父・五代目歌右衛門の死後は初代中村吉右衛門の吉右衛門劇団で薫陶を受け、戦後歌舞伎の伝統を昭和末まで担い続けた。
戦後歌舞伎の女形の最高峰
六代目中村歌右衛門は、戦後昭和の歌舞伎界を代表する女形の最高峰として君臨した役者である。生涯を真女形(立女形を兼ねず女役のみを演じる女形)として過ごし、娘形・姫・傾城・世話女房に至るまでのあらゆる女形領域を完璧にこなした。
昭和 43 年(1968 年)に人間国宝、昭和 54 年(1979 年)に文化勲章、平成 8 年(1996 年)に芸能界初の生前叙勲となる勲一等瑞宝章を受章。戦後歌舞伎の伝統を昭和末から平成にかけて担い続け、現代の歌舞伎界に「歌右衛門様式」と呼ばれる芸の系譜を残した。
五代目歌右衛門の次男、3 歳で初舞台
大正 6 年(1917 年)1 月 20 日、五代目中村歌右衛門の次男として東京に生まれる。本名は河村藤雄(幼少時に母方の実家・河村家に養子入りしたため)。
父・五代目歌右衛門は当時の歌舞伎座幹部技芸委員長で、明治・大正の劇界を牽引する大役者だった。次男の藤雄は 3 歳のときに初舞台、五代目大谷友右衛門の名で子役として歌舞伎の世界に入る。
昭和 8 年(1933 年)、芝翫を襲名し本格的に女形の道を歩み始める。
五代目の死、戦時下の研鑽
昭和 15 年(1940 年)、父・五代目歌右衛門が死去。当時 23 歳の芝翫は、後ろ盾を失った「歌舞伎界の孤児」となった。父の名跡を継ぐにはまだ早く、戦時下の歌舞伎界で一人立ちすることになる。
しかし、芝翫の才能を見抜いたのが初代中村吉右衛門だった。吉右衛門は自身の率いる吉右衛門劇団に芝翫を迎え入れ、戦争末期から戦後にかけて若き芝翫を大役に次々と抜擢して育成した。
「父を失った若き女形を、当時最高の立役者(男役)が手元に置いて育てた」 — 戦中の歌舞伎界の人事として、特筆すべきエピソードである。
戦後の女形 — 当たり役の数々
戦後、芝翫は二代目中村鴈治郎・七代目尾上梅幸らと並ぶ戦後歌舞伎の中核役者として活躍する。
代表的当たり役:
- 『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子 — 歌舞伎舞踊の最高峰、芝翫の生涯の代表作
- 『籠釣瓶花街酔醒』の八橋 — 江戸吉原の遊女
- 『本朝廿四孝』の八重垣姫 — 三姫の一つ
- 『積恋雪関扉』の小町・墨染 — 二役早変わり
七代目尾上梅幸とはよきライバルとして戦後女形を二分し、二代目中村鴈治郎とは「双方の父親と同様にライバルでもあり、無二の親友」だった。
六代目歌右衛門襲名
昭和 26 年(1951 年)、芝翫は六代目中村歌右衛門を襲名した。五代目の死から 11 年、34 歳での襲名となった。
以後、戦後歌舞伎の頂点に立ち続け、女形の領域すべてを支配する「真女形の最高峰」としての地位を確立した。
- 昭和 37 年(1962 年): 日本芸術院賞
- 昭和 38 年(1963 年): 日本芸術院会員(史上最年少 46 歳)
- 昭和 43 年(1968 年): 人間国宝(重要無形文化財保持者)
- 昭和 54 年(1979 年): 文化勲章受章
- 平成 8 年(1996 年): 勲一等瑞宝章(芸能界初の生前叙勲)
平成 13 年、東京で逝去
平成 13 年(2001 年)3 月 31 日、東京で逝去。享年 84。戦後昭和を女形として駆け抜けた一代の役者の死だった。
中村歌右衛門の名跡は、その後襲名がしばらく行われていない大名跡として歌舞伎界に残っている。
青山霊園に眠る
六代目中村歌右衛門の墓は、青山霊園 1種イ1号10側。同霊園には師である初代中村吉右衛門 (中村吉右衛門)、明治歌舞伎の最高峰 市川團十郎九代目 も眠っており、明治・大正・昭和の歌舞伎を作った役者たちが同じ霊園に並ぶ形となっている。
「歌舞伎界の孤児」となった青年期、戦時下に初代中村吉右衛門に手を引かれて育った芝翫の墓が、その師の墓と同じ霊園にあること — 戦中戦後の歌舞伎界の師弟関係が、青山霊園の地形そのものに刻まれている。


