中村 吉右衛門(初代) (1886-1954)の肖像
中村 吉右衛門(初代)の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

中村 吉右衛門(初代)

なかむら きちえもん

Nakamura Kichiemon I

戦前最高峰の歌舞伎立役。六代目尾上菊五郎とともに「菊吉時代」を築き、時代物の名優として一時代を画した東京の歌舞伎役者。

生没年
出身地
東京
死没地
東京
時代
大正・昭和
役職
歌舞伎役者(立役)
受勲
日本芸術院賞 / 日本芸術院会員
区画
1種ロ12号7側
タグ
歌舞伎 / 立役 / 菊吉時代 / 中村吉右衛門 / 時代物

「菊吉時代」 — 戦前最高峰の歌舞伎立役

中村吉右衛門(初代)は、明治末から昭和初期にかけて、六代目尾上菊五郎(1885-1949)とともに「菊吉時代(きくきちじだい)」を築いた、戦前歌舞伎界の最高峰の立役である。

「菊吉」 — 菊五郎と吉右衛門の二人の名跡を並べて呼ぶこの言葉は、大正から昭和初期にかけての歌舞伎の 黄金期そのものを指す。菊五郎が世話物・舞踊で天才の名をほしいままにしたのに対し、吉右衛門は 時代物・古典の立役(主君・忠臣・武家)で並ぶ者のない名声を得た。

特に 「熊谷陣屋」の熊谷直実、「忠臣蔵」の大星由良之助、「俊寛」の俊寛などの時代物の老け役における、深い人間味と内面表現は、後の歌舞伎役者たちの 規範となった。

中村吉右衛門という名跡は、初代から続く立役の名跡として、後に 二代目中村吉右衛門(初代の孫娘の子・本名・波野辰次郎、1944-2021)に継承された。

三代目中村歌六の次男、波野家の出

明治 19 年(1886 年)3 月 24 日、東京の歌舞伎役者 三代目中村歌六の次男として生まれる。本名は 波野(なみの)辰次郎。

波野家は江戸末から続く歌舞伎の家で、三代目歌六は明治期の上方歌舞伎・東京歌舞伎の両方で活躍した名優。家には常に芝居の話が満ち、辰次郎(後の吉右衛門)は 生まれながらの歌舞伎人であった。

兄弟姉妹の縁は深く、長男(後の 三代目中村時蔵)、姉は 六代目尾上菊五郎の妻・寺島たか、長妹は六代目歌六(後継者)に嫁ぐなど、明治の歌舞伎名門の縁戚を体現した家族関係であった。

明治 30 年、11 歳で初舞台

明治 30 年(1897 年)、11 歳で 初代中村吉右衛門を名乗って東京・歌舞伎座で初舞台。同年、父・三代目歌六が死去。少年・吉右衛門は早くから一座を率いる立場に置かれた。

明治末から大正期にかけて、東京の歌舞伎座・市村座・帝国劇場を渡り歩きながら、時代物の立役として頭角を現した。明治 41 年(1908 年)、若年の 二代目市川左團次らとともに「自由劇場」運動に参加した時期もあり、西欧近代劇への関心も持っていた。

大正・昭和初期 — 六代目菊五郎との「菊吉時代」

大正期に入ると、吉右衛門は 六代目尾上菊五郎との競演で頂点を迎える。

二人は 東京歌舞伎の双璧として、観客動員でも芸の質でも他の追随を許さなかった。「菊吉時代」(きくきちじだい)とは、おおむね 大正 10 年代から昭和 20 年代を指す。

代表的当たり役:

吉右衛門の 時代物の老け役は、「内面の沈潜」で評価された。台詞回しの抑揚・表情の翳り・身体の所作 — すべてが静謐で、観客に長く印象を残す芸風であった。

戦中・戦後の苦難と再起

昭和 15 年代以降、戦時統制で歌舞伎座の興行は制限。昭和 20 年(1945 年)3 月の 東京大空襲で歌舞伎座が焼失。吉右衛門も住居を失い、巡業と疎開を余儀なくされた。

戦後、昭和 22 年(1947 年)に再開された 歌舞伎座で復活。GHQ の検閲下(忠君愛国・仇討ち物の上演制限)でも、人間ドラマとして演じ直せる演目に注力。昭和 23 年(1948 年)に 日本芸術院会員、昭和 26 年(1951 年)に 日本芸術院賞を受賞。

晩年は 「人間国宝」級の存在として尊敬を集めた(人間国宝制度自体は彼の死後の昭和 30 年/1955 年に発足、もし生きていれば確実に初期認定者となったとされる)。

昭和 29 年 9 月 5 日、東京で逝去

昭和 29 年(1954 年)9 月 5 日、東京の自宅で死去。享年 68。盟友・六代目尾上菊五郎が前年(1949 年)に没していたため、「菊吉時代」は完全に幕を閉じた。

吉右衛門の名跡は、後年(昭和 41 年/1966 年)、孫娘の子の 二代目中村吉右衛門に襲名され、現代まで続いている。

親族の著名人

逸話・エピソード

句作と俳号「秀山」 — 舞台の合間に詠む

吉右衛門は俳人としても知られ、俳号は「秀山(しゅうざん)」。高浜虚子に師事し、『ホトトギス』にもしばしば投句した。「役者が句を作るのは、台詞を磨くため」 — 本人の弁である。

句作で培った言葉の重みは、時代物の重い台詞回しに反映されたと言われる。後年「秀山祭」と名づけられた歌舞伎の興行(現在の秀山祭九月大歌舞伎)は、二代目吉右衛門が初代の俳号にちなんで名付けたものである。役者の俳号が、孫の代まで歌舞伎の年中行事の名前として残るという、芸の家らしい継承の形になった。

戦時下、空襲の夜の歌舞伎座

昭和 20 年(1945 年)3 月 9 日夜から 10 日未明の東京大空襲で、歌舞伎座は焼失した。前夜まで吉右衛門も舞台に立っていたが、空襲警報のたびに上演中断、観客は地下に避難 — そんな状態が続いていた。3 月 10 日朝、灰燼に帰した歌舞伎座の前に立った吉右衛門は、瓦礫を見つめながら無言だったと伝わる。

戦後、昭和 22 年(1947 年)の歌舞伎座再開公演で吉右衛門は熊谷直実を演じた。「熊谷陣屋」の名場面、わが子の首を主君の若君として差し出す場面 — 戦争で多くの人が子を亡くした観客席は、号泣の渦になったという。「芸は時代と共に意味を変える」 — 戦前から戦後への日本の精神史を、吉右衛門の熊谷は一身に背負っていた。

青山霊園に眠る

中村吉右衛門(初代)の墓は、青山霊園 1種ロ12号7〜10側。同じ「1種ロ12号」の区画には、加藤友三郎(海軍大将・首相、1・6 側)、小村寿太郎(外相、1・6 側)、田中久重(東芝源流の発明家、31 側)などが眠る。

戦前歌舞伎の最高峰が、明治の政治家・軍人・発明家と同じ区画に眠っている — 「明治・大正・昭和を作った者たち」の中に、芸能の代表として吉右衛門が含まれている配置は、青山霊園が 「近代日本のあらゆる分野の頂点を集めた地」であることを最も雄弁に物語る。

墓所の位置

参考資料

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