市川 團十郎(九代目) (1838-1903)の肖像
市川 團十郎(九代目)の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
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市川 團十郎(九代目)

いちかわ だんじゅうろう

Ichikawa Danjuro IX

「劇聖」と称された明治歌舞伎中興の祖。江戸歌舞伎の市川宗家を継ぎ、五代目尾上菊五郎・初代市川左團次と「團菊左時代」を築いた立役の頂点。

生没年
出身地
江戸(現・東京都)
死没地
千葉県茂原市
時代
江戸・明治
役職
歌舞伎役者(立役)
区画
1種イ21号12側
タグ
歌舞伎 / 市川宗家 / 團菊左時代 / 劇聖 / 活歴物

「劇聖」 — 明治歌舞伎中興の祖

九代目市川團十郎は、江戸後期から明治にかけて活躍し、「劇聖」と称された歌舞伎立役の最高峰である。明治の歌舞伎界を 五代目尾上菊五郎・初代市川左團次とともに支えた 「團菊左時代」(明治 20-30 年代)は、歌舞伎史における 黄金時代として現在も語り継がれる。

天保 9 年(1838 年)11 月 29 日、江戸・木挽町(現・銀座)に 七代目市川團十郎の五男として生まれる。幼名は 海老蔵。父・七代目は江戸歌舞伎を席巻した名優で、九代目はその血統を継ぐ正統な後継者となった。

しかし市川家には危機が訪れていた。八代目團十郎(兄)は天保 6 年(1854 年)に 大坂で謎の自殺を遂げ、父・七代目も天保改革で江戸所払いの処分を受けるなど、宗家は 存続の瀬戸際にあった。九代目はこの 没落寸前の市川宗家を再興する重責を背負って成長した。

市川宗家の継承

文久 2 年(1862 年)、河原崎座の養子に出されていた九代目は 「河原崎権之助」を襲名。明治 7 年(1874 年)、九代目市川團十郎を襲名して市川宗家を正式に継承した。36 歳での襲名であった。

明治維新で歌舞伎は 「賤業」から 「国民演劇」への転換期にあった。九代目は 演劇改良運動(明治 19 年/1886 年、伊藤博文・末松謙澄ら政府要人主導)に協力し、歌舞伎を 西洋演劇に伍する芸術として再定義することに尽力した。

「活歴物」と團菊左時代

九代目が試みた最大の革新は、「活歴物(かつれきもの)」と呼ばれる 史実重視の時代劇の創造であった。それまでの歌舞伎は虚構と様式美の世界で、史実の人物・事件もあくまで芝居の素材として扱われていた。九代目は 「真の歴史を舞台に」という改良運動の方針に沿い、衣装・所作・台詞を史実に近づけた新作を多数発表した。

しかし「活歴物」は 観客の不評を買うことも多く、九代目自身も後年は伝統的な歌舞伎(歌舞伎十八番・新歌舞伎十八番)への回帰を見せた。それでも、演劇は文化として扱われるべきという意識を歌舞伎界に植え付けた功績は大きい。

五代目尾上菊五郎(世話物・舞踊の天才)・初代市川左團次(新派的演技の先駆)とともに、明治 20 年代・30 年代の歌舞伎を 「團菊左時代」として黄金期に押し上げた。

代表的当たり役:

明治 20 年(1887 年)、天覧歌舞伎(明治天皇御前公演)を成功させ、歌舞伎の 国家的地位を確立。

明治 36 年 9 月 13 日、千葉・茂原で逝去

明治 36 年(1903 年)9 月 13 日、療養先の 千葉県茂原市で死去。享年 64。市川宗家の継承者問題は深刻で、九代目には男子がおらず、長女・実子の婿養子としていた 市川三升(後の十代目)が宗家を継ぐが、十代目は襲名披露を行えず終戦後の昭和 37 年に追贈された。

明治末から大正・昭和への歌舞伎界の変化(新派・新国劇の勃興・大正期の歌舞伎黄金期)を、九代目は見ずに逝った。

親族の著名人

逸話・エピソード

天覧歌舞伎(1887 年) — 明治天皇の前で『勧進帳』

明治 20 年(1887 年)4 月、外務大臣・井上馨邸で行われた天覧歌舞伎。明治天皇・皇后・伊藤博文ら政府首脳が居並ぶ前で、九代目團十郎は『勧進帳』の弁慶を演じた。当時、歌舞伎は「賤業」と見下されていた風潮の中、天皇の御前公演という最高の栄誉を得たことは、歌舞伎の社会的地位を一変させる歴史的事件となった。演目を終えた九代目は天皇から直接「見事であった」と声をかけられたとされ、楽屋に戻ってから涙したと伝わる。役者の家に生まれた者の悲願が、この一夜で叶った。

「活歴物」の挫折 — 観客が離れた革新

九代目が情熱を注いだ「活歴物」(史実重視の時代劇)は、衣装も所作も史実に近づける革新的な試みだったが、観客の評判は芳しくなかった。「歌舞伎は虚構の様式美を楽しむもの。リアリズムなど見たくない」というのが当時の客の本音で、九代目の意欲作はしばしば不入りに終わった。後年、本人も「客が望むなら伝統に戻る」と歌舞伎十八番への回帰を見せた。革新と伝統の間で揺れ続けた明治の劇聖の、もう一つの素顔である。

千葉・茂原での最期 — 客死の劇聖

明治 36 年(1903 年)9 月、九代目は療養先の千葉県茂原で 64 年の生涯を閉じた。江戸で生まれ、江戸で歌舞伎を率い続けた人物が、最期に選んだのは故郷でも東京でもなく、療養地の茂原だった。死の床で「市川宗家を頼むぞ」と長女・実子に遺言したと伝わる。だが九代目には男子がおらず、宗家継承は迷走する。婿養子の市川三升(後の十代目)が宗家を継ぐが、襲名披露を行えないまま戦後を迎え、十代目の名跡が正式に追贈されたのは昭和 37 年のことだった。

青山霊園に眠る

九代目市川團十郎の墓は、青山霊園 1種イ21号12側。同じ「1種イ21号」の区画には、広瀬武夫(9 側、軍人)・副島種臣(1 側、外交官)・秋山好古(2 側、軍人)などが眠る。

明治の 武人・外交官たちが眠る区画に、明治の 歌舞伎の頂点が並ぶ配置は、青山霊園が 明治日本のあらゆる分野の中心人物を集めた地であることを象徴する。

既登録の 初代中村吉右衛門(1種ロ12号、戦前歌舞伎の双璧の一人)とは別区画だが、青山霊園全体で 「明治・大正・昭和の歌舞伎の頂点」を網羅する地理となった。

墓参り写真

  • 墓所

    — 墓所

墓所の位置

参考資料

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