大和田 建樹
おおわだ たけき
Ōwada Takeki
「汽笛一声新橋を」で始まる『鉄道唱歌』を作詞し、明治の国民に旅情と汽車の風景を歌い継がせた詩人・国文学者。
「汽笛一声新橋を」 ―― 日本中の子どもが歌った詩人
大和田建樹は、明治 33 年(1900 年)に発表された『鉄道唱歌』の作詞者として、日本中の子どもの口に自分の言葉を載せた詩人である。「汽笛一声新橋を / はや我汽車は離れたり / 愛宕の山に入りのこる / 月を旅路の友として」 ―― この第一集第一番の歌い出しを知らない明治・大正・昭和の日本人はいなかった。新橋を出発した汽車が東海道線を西に走り、品川、川崎、横浜、と地名と歴史をつなぎながら神戸まで歌い継がれていく。子どもが汽車に憧れ、大人が旅情を慰め、教師が地理を教える ―― この一篇の唱歌は、明治日本に「鉄道で動く国」のイメージを刻み込んだ。
鉄道唱歌は第一集の東海道編に始まり、山陽九州編、奥州磐城編、北陸編、関西参宮南海編、そして北海道編まで、全六集で日本列島を縦断する。歌詞の総数は六集合わせて 374 番、すべてを大和田一人が書いた。出版から大正初期までの 20 年間で総計 2000 万部を売り上げたといわれ、明治の楽譜出版史上ほかに並ぶものがない大ヒットとなった。
しかし大和田は単なる流行歌の作詞家ではない。本業は国文学者で、東京高等師範学校(現・筑波大学)の教授として日本語と古典を教え、生涯に 100 冊を超える詩集・歌集・教科書・翻訳・国文学研究書を著した、明治の文人の典型である。
宇和島から東京へ ―― 国学を志した青年
安政 4 年(1857 年)4 月、伊予国宇和島(現・愛媛県宇和島市)に、宇和島藩士・大和田水雲の子として生まれる。幼名は健樹、後に建樹と改める。宇和島藩は幕末に名君・伊達宗城を頂いて藩政改革と洋学導入を進めた進取の藩であり、その藩校で漢学を学んだ建樹は早くから書物の世界に没頭した。
明治維新後、藩が消え新しい国が生まれる時代に、建樹は新時代の知識人としての道を歩み始める。明治 9 年(1876 年)、19 歳で広島県師範学校を卒業して教員となるが、より高度な学問を志して上京。明治 15 年(1882 年)に東京大学古典講習科に入学し、本居宣長・賀茂真淵以来の国学の系譜と、当時導入されつつあった西洋の文学理論の両方を吸収した。
卒業後は国文学者として活動を始め、東京高等師範学校をはじめ複数の学校で教壇に立ちながら、『日本大文典』『和歌作法』『欧米小説梗概』など、研究書・教科書・翻訳に旺盛な筆力を発揮した。教育者として日本語の規範を整え、同時に詩人として新しい日本語の韻律を試みる ―― 明治の国文学者の典型的な仕事を、彼は誰よりも勤勉にこなした。
取材列車に乗って ―― 鉄道唱歌、誕生
明治 33 年(1900 年)、大阪の楽譜出版社・昇文館の市田元蔵が、新しい趣向の唱歌集を企画した。当時、新橋と神戸を結ぶ東海道線が全通して 11 年、鉄道は明治日本の近代化の象徴であり、子ども達の憧れの的だった。「東海道線の沿線の地名と名所を順に歌った唱歌を作れば、地理の教材にもなり、子どもにも喜ばれる」 ―― この企画の作詞者として白羽の矢が立ったのが、教育者として教科書執筆の経験豊富な大和田建樹だった。
大和田は企画者の市田に伴って実際に東海道線に取材列車として乗り込み、車窓から見える山河と歴史的名所を一駅ずつ確認しながら歌詞を書き上げていった。この旅は後に『車窓日記』として記録されている。完成した歌詞は 66 番、新橋発の汽車が品川、大森、川崎、鶴見、横浜、横須賀、藤沢、平塚、と進み、富士山を仰ぎ、東海道五十三次の各宿を歌い、京都・大阪を経て神戸に至る、文字通りの「歌う鉄道地図」となった。
作曲は多梅稚(おおの・うめわか)と上真行(うえ・さねみち)が担当し、特に多のメロディは「覚えやすく余りにもテンポがよく旅情がそそられる」と評され、子ども達の口に瞬く間に広まった。版元の三木楽器(三木佐助)は楽団を乗せた宣伝列車を走らせる派手な広告戦略を打ち、鉄道唱歌は明治日本の国民歌と化した。
第一集の成功を受けて大和田はそのまま続編の作詞を引き受け、山陽九州編(68 番)、奥州磐城編(64 番)、北陸編(72 番)、関西参宮南海編(64 番)、そして北海道編(40 番)と書き継ぎ、最終的に日本全国の主要鉄道路線を網羅する全六集を完成させた。日本列島の地名と歴史と風景を、一人の詩人が韻律にまとめて記憶可能な形にした ―― この仕事は近代日本語の韻文史において唯一無二の達成である。
加えて大和田は、スコットランド民謡に日本語詞を当てた「故郷の空」(夕空はれて秋風吹き)、源義経の伝説を歌った「青葉の笛」(一の谷の軍敗れ)など、後の昭和期まで歌い継がれる名作詞を多数残した。それらはいずれも、国文学者として日本語の音律を熟知した彼ならではの、口ずさみやすく品格のある歌詞である。
早すぎる晩年
鉄道唱歌の大成功と並行して、大和田は教科書・国文学研究書・歌集・翻訳を矢継ぎ早に発表し続けた。生涯に著した書物は 100 冊を超えるといわれ、明治の文人の旺盛な著作活動の典型を示している。しかしその猛烈な仕事ぶりは、彼の身体を確実に蝕んでいった。
明治 43 年(1910 年)10 月 1 日、東京の自宅で病没。享年 53。鉄道唱歌の発表からわずか 10 年後、まだ十分に書けるはずの年齢での早世であった。新橋駅構内には後に「鉄道唱歌の碑」が建てられ、彼が日本中に歌わせた汽笛一声の歌い出しを、今も新しい時代の旅人に伝えている。
青山霊園に眠る
大和田建樹は、青山霊園 1 種ロ 18 号 7 側に眠る。汽笛が響き続ける都心の片隅で、明治の旅情を歌った詩人は静かにその墓を構える。
同じく明治の文壇を生きた国木田独歩、尾崎紅葉、明治から昭和へと劇作の世界で活躍した岡本綺堂も、それぞれ本霊園に眠る。新しい日本語の表現を試み、新しい文学と新しい歌を国民に届けた明治の文人たちは、青山の土の下で時代を超えた同窓となっている。



