ペリー来航(黒船来航)
米国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる蒸気軍艦四隻が浦賀沖に来航し、開国を要求する大統領親書を幕府に提出。二百余年の鎖国体制が事実上終わりを告げ、幕末動乱の幕が切って落とされた。
二百余年の鎖国を破った四隻の黒船
嘉永六年六月三日(陽暦 1853 年 7 月 8 日)、米国東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー准将は、蒸気外輪フリゲート艦サスケハナ・ミシシッピを含む合計四隻の艦隊を率いて相模国浦賀沖に投錨した。船体を黒く塗り、煙突から黒煙を上げて自走するその姿は、日本人に「黒船」と呼ばれ強烈な衝撃を与えた。ペリーはフィルモア大統領の親書を幕府に手交し、開国と通商の開始を要求した上で、翌年再来航する旨を宣告して退去した。日本史の年表で「近代の始まり」と位置付けられる象徴的な一日である。
背景 — 太平洋捕鯨と中国貿易が呼び込んだ西の脅威
十九世紀前半、米国は太平洋を舞台に捕鯨業を急拡大させており、薪水・食料の補給地として日本の港を必要としていた。さらにアヘン戦争で清が英国に敗北(一八四二)した報は江戸幕府にも届いており、西欧列強の軍事力と東アジア秩序の崩壊は知識層の共通認識となっていた。幕府は天保十三年(一八四二)に異国船打払令を緩和し薪水給与令へ転じていたが、自国を「近代化された軍事力で武装した国家」とは認識しておらず、ペリー艦隊の威圧的来航に対して即答ができなかった。
経過 — 翌年の日米和親条約と開国
幕府は将軍家慶の病状を理由に回答を翌年へ持ち越した。安政元年一月十六日(一八五四年 2 月 13 日)、ペリーは約束通り七隻に増強した艦隊で江戸湾深く侵入。同年三月三日(陽暦 3 月 31 日)、日米和親条約が調印され、下田・箱館の二港が開港。米国船への薪水・食料供給、領事の駐在、最恵国待遇が認められた。続いてオランダ・ロシア・英国・フランスとも同様の和親条約が結ばれ、二百二十年余の鎖国体制は事実上終焉した。
影響 — 幕末動乱の起点となった一日
ペリー来航は単なる外圧ではなく、日本国内の政治構造を根本から揺さぶった。朝廷と幕府の主従関係が「攘夷」を巡って逆転し、雄藩の発言力が増し、桜田門外の変・薩英戦争・禁門の変・大政奉還へと連なる十五年の激動の出発点となった。維新を成し遂げて明治国家を建設することになる多くの志士たちは、この日に物心つく前の幼児として「黒船」を遠い噂として聞き育った世代に属する。彼らの政治的人生はこの日に始まったと言ってよい。