大政奉還
15 代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上。土佐藩・後藤象二郎が起草した建白書を機に決断、260 年余の江戸幕府が事実上終焉した。
260 年余の幕府が一夜にして畳まれた日
大政奉還は、慶応 3 年 10 月 14 日(陽暦 1867 年 11 月 9 日)、15 代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを上表した政治決断である。翌 15 日、朝廷はこれを勅許し、慶長 8 年(1603 年)の徳川家康による江戸幕府開設から 264 年続いた武家政権が、戦闘を経ずに自ら終焉した。
世界史的に見ても、260 年続いた政権が大規模な内戦を起こさずに自発的に統治権を返上した例は極めて稀である。前年の薩長同盟・第二次長州征討の敗北で軍事的に追い詰められていた幕府が、土佐藩からの建白を契機に「自ら政権を返す」道を選んだことで、明治新国家への移行は流血の最小化に成功した。直後の鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争に発展はするものの、首都・京都の政体転換そのものは一片の血も流されずに完了している。
背景 — 薩長同盟・第二次長州征討・将軍交代
慶応 2 年(1866 年)1 月、坂本龍馬の周旋で薩長同盟が成立。同年 6 月、幕府は第二次長州征討を開始するが、軍備で勝る長州藩の前に各方面で敗退。7 月には 14 代将軍・徳川家茂が大坂城で病死し、幕府は休戦に追い込まれた。260 年来の支配秩序が瓦解しつつあった。
同年 12 月、徳川慶喜が 15 代将軍に就任。慶喜はフランス公使ロッシュの助言を受けて幕政改革・軍制改革を進めるが、薩摩・長州・土佐ら西南雄藩の動きを止めることはできなかった。慶応 3 年(1867 年)に入ると、薩摩・長州は武力倒幕の挙兵を準備し始める。10 月 14 日には、岩倉具視を通じて薩摩・長州に「討幕の密勅」が下ったとされる(真偽は今も歴史学で議論される)。
土佐藩は、藩主・山内容堂が「公議政体論」(諸侯会議による合議制への移行)を支持していた。薩長の武力倒幕路線とは別に、戦わずに幕府を解体する道を模索する。その理論的支柱となったのが、後藤象二郎と坂本龍馬の合意で生まれた「船中八策」である。
船中八策から建白書、そして二条城へ
慶応 3 年 6 月、長崎から京都へ向かう土佐藩船・夕顔丸の船中で、坂本龍馬は後藤象二郎に新国家構想を口述した。大政奉還・上下両議院の開設・憲法制定・海軍創設・外交一新・通貨統一などを骨子とする 8 か条 — 後に「船中八策」と呼ばれる構想である。
後藤は京都到着後、土佐藩参政の立場でこれを藩主・山内容堂に建議。容堂はこれを受け入れ、慶応 3 年 10 月 3 日、土佐藩は「大政奉還建白書」を将軍・徳川慶喜に提出した。建白書は、徳川家が自ら政権を朝廷に返上することで武力衝突を回避し、新たな公議政体を作るべきだと説いた。芸州藩(広島)も同調する建白を行っている。
10 月 13 日、慶喜は京都・二条城に在京の諸藩重臣 40 余名を招集。大政奉還の意向を諮問した。翌 10 月 14 日、慶喜は朝廷に大政奉還の上表文を提出。同日午後、京都の薩摩・長州に下されていた討幕の密勅は名分を失った。15 日、朝廷は上表を勅許。慶喜は征夷大将軍の辞表も提出した(辞職勅許は 24 日)。
歴史的影響
1. 武力倒幕路線の名分喪失と「王政復古の大号令」への遷移
幕府が自ら政権を返上した以上、薩長が用意していた「討幕」の名分は宙に浮いた。これを覆すため、岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛らは慶応 3 年 12 月 9 日(陽暦 1868 年 1 月 3 日)、「王政復古の大号令」を発し、将軍職・摂政関白・幕府の廃止と新政府樹立を一方的に宣言する。同日夜の小御所会議で慶喜の辞官納地が決定され、これが鳥羽伏見の戦いへの直接の引き金となった。
2. 内戦規模の最小化
大政奉還そのものは無血で完了した。直後の戊辰戦争で戦死者は約 8,200 名(政府軍・旧幕府軍合計)とされ、近世以前の同規模の政権交代(応仁の乱・関ヶ原合戦・島原の乱)と比較しても、首都中枢部での流血を伴わなかった点は際立つ。
3. 公議政体論の議会制度への伏線
船中八策の「上下議政局を設け万機を公議に決すべし」の条項は、明治 7 年(1874 年)の民撰議院設立建白書、明治 14 年(1881 年)の国会開設の詔、明治 22 年(1889 年)の大日本帝国憲法発布・帝国議会開設へと連なる流れの原点となった。後藤象二郎・板垣退助らが自由民権運動を主導した思想的土壌は、ここに始まる。
4. 「敗者を活かす」明治国家の度量
慶喜は朝敵とされながらも生命を保ち、後に公爵に叙された。勝海舟・榎本武揚・大鳥圭介ら旧幕臣も新政府で要職に就いた。流血を最小限に抑えた政権交代の流儀が、敗者の人材を国家建設に取り込む明治政府の人事文化を形成した。
関連する偉人とその役割
後藤 象二郎(土佐藩参政)
土佐藩主・山内容堂を動かして「大政奉還建白書」を起草・提出させた、本事件の実務的中心人物。慶応 3 年 6 月、長崎から京都へ向かう藩船・夕顔丸の船中で坂本龍馬から船中八策を聞き、これを土佐藩政府に持ち込んで建白書の形に練り上げた。10 月 3 日、容堂の名で建白書が慶喜に提出され、同月 14 日の大政奉還上表へと結実する。
後藤は土佐藩参政・大監察として藩内の合意形成を担い、坂本が幕府勢力に近い人脈とも対話できる「実務家」として動いた組み合わせが、土佐藩発の建白を実現させた。坂本龍馬は奉還上表の 1 か月後、慶応 3 年 11 月 15 日に京都・近江屋で暗殺され、後藤一人が新政府期に持ち越されることになる。維新後は参議・自由党副領袖・農商務大臣を歴任、明治 30 年(1897 年)逝去。
関連する作品
- 司馬遼太郎『竜馬がゆく』(1963-66 年、文藝春秋) — 坂本龍馬を主人公とする長編歴史小説。船中八策と大政奉還への流れを克明に描き、後藤象二郎の役回りも重要な脇役として登場する
- NHK 大河ドラマ『竜馬伝』(2010 年、福山雅治主演) — 後藤象二郎を青木崇高が演じ、龍馬との確執と協働、大政奉還への動きが詳しく描かれた
- NHK 大河ドラマ『青天を衝け』(2021 年) — 慶喜側(草彅剛演)の視点から大政奉還の決断が描かれた
京都・二条城は現在も世界遺産として一般公開されており、大政奉還が決定された大広間(二の丸御殿)はそのまま保存されている。