版籍奉還
明治二年六月十七日、薩長土肥四藩主が朝廷へ領地(版図)と領民(戸籍)を返上したことを契機に、全国の藩主が版籍奉還を上表。藩主は知藩事として元の領地を治め続けたが、土地と人民の所有権は形式上朝廷に帰し、廃藩置県への布石となった。
大名が領地・領民を朝廷へ返上した日
明治二年六月十七日(陽暦 1869 年 7 月 25 日)、明治新政府は薩摩・長州・土佐・肥前の四藩主が三月に上表していた版籍奉還を勅許し、続いて全国の二百七十四藩主にも順次同様の上表を求めた。これにより各藩の領地(版図)と領民(戸籍)は形式上朝廷に返還され、藩主は朝廷から知藩事として任命される形で従来の領地統治を継続することになった。実質的な権力構造は変わらなかったものの、「土地と人民は天皇のもの」という近代国家の原理が初めて宣言されたという点で、その後の廃藩置県へ向かう不可逆的な一歩となった。
背景 — 戊辰戦争後の旧体制温存
戊辰戦争で旧幕府勢力を打倒した新政府は、表面的には王政復古を達成したが、実態は依然として全国を二百七十余の藩が個別に統治する封建体制のままだった。各藩は独自の軍備・財政・徴税権を持ち、明治新政府の政令も藩境を越えると徹底しなかった。中央集権国家を構築するには藩制度そのものの解体が必要であったが、戊辰戦争で味方となった諸藩を一挙に廃止することは政治的に不可能であった。木戸孝允・大久保利通・板垣退助・大隈重信らはまず「土地と人民の所有権の名目的移譲」から着手することで、段階的廃藩への布石を打った。
経過 — 薩長土肥四藩主の上表から全国へ
明治二年一月二十日、薩摩(島津忠義)・長州(毛利敬親)・土佐(山内豊範)・肥前(鍋島直大)の四藩主が連名で版籍奉還を上表。これは木戸孝允と大久保利通が主導し、四藩主を説得して実現した政治工作の成果であった。続いて他の諸藩も雪崩を打って上表し、六月十七日に全藩の奉還が一括勅許された。藩主はその後「知藩事」として朝廷から任命される形となり、家禄として旧領収入の十分の一が支給されることになった。家臣(藩士)も「士族」「卒族」の身分に編入され、藩主と藩士の主従関係は形式上断ち切られた。
影響 — 廃藩置県への二年間
版籍奉還は中央集権化の第一歩ではあったが、地方統治の実態はほとんど変化せず、旧藩主と旧藩士の関係も実質的に温存された。新政府は二年後の明治四年七月、廃藩置県を断行して藩を完全に廃止し、府県制度に置き換える。本霊園に眠る大久保利通は版籍奉還・廃藩置県の両方を中央集権化の同一の戦略の二段階として構想し、薩摩を率いる立場から自ら旧体制の解体を主導した。版籍奉還がなければ廃藩置県の地ならしは成り立たず、明治国家建設のテンポは大きく遅れたであろう。