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相沢事件(永田鉄山軍務局長暗殺)


陸軍省軍務局長室で、皇道派の相沢三郎中佐が統制派の中心・永田鉄山軍務局長を軍刀で斬殺。半年後の二・二六事件の直接的伏線となった陸軍中央の前代未聞の事件。

暗殺された陸軍省軍務局長・永田鉄山
暗殺された陸軍省軍務局長・永田鉄山 Wikimedia Commons / Public domain
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事件

軍務局長室の白昼斬殺 ——「永田を斬る」皇道派青年将校の暴走

相沢事件は、昭和 10 年(1935 年)8 月 12 日午前 9 時 45 分、陸軍省軍務局長室(東京・三宅坂)で、現役の歩兵第 41 連隊附・相沢三郎陸軍中佐が、執務中の永田鉄山陸軍省軍務局長(陸軍少将)を軍刀で斬殺した事件である。

陸軍中央の中枢中の中枢、陸軍省内で、現役中佐が現役少将を白昼に斬殺するという、近代日本陸軍史上類のない事件だった。永田は即死。享年 51。殉職により陸軍中将に進級、正四位勲一等瑞宝章を追贈された。

事件の根は陸軍内部の派閥対立 — 統制派(永田を中心とする陸軍中央エリート)と皇道派(真崎甚三郎・荒木貞夫を擁する青年将校系)の決定的な対立にあった。相沢公判は皇道派青年将校の政治宣伝の場と化し、半年後の昭和 11 年(1936 年)2 月 26 日に発生する二・二六事件の直接的伏線となる。

背景 — 統制派と皇道派の対立深化

昭和初期の陸軍は二つの派閥に大きく分かれていた。皇道派(真崎甚三郎・荒木貞夫を擁し、青年将校の精神主義と農村救済を重視)と、統制派(永田鉄山・東條英機・武藤章ら、軍中央のエリート官僚軍人で、国家総動員と総力戦体制を重視)である。

両派の対立は思想・人事・戦略構想の全方位に及んだ。昭和 9 年(1934 年)11 月の陸軍士官学校事件(青年将校による未遂クーデター)以降、統制派は皇道派将校への弾圧を強化し、皇道派青年将校は「永田は天皇陛下を欺き、軍を私するもの」と公然と批判するようになる。

昭和 10 年(1935 年)7 月 15 日、真崎甚三郎教育総監が更迭される人事が発表された。この人事は永田が画策したものとして皇道派側に喧伝され、永田は青年将校から「悪の中枢」「奸臣」として標的にされる立場に置かれる。

歩兵第 41 連隊附・相沢三郎陸軍中佐(当時 46 歳、剣道の達人として知られる)は、真崎更迭人事を聞き、「永田を斬らねばならぬ」と決意した。7 月 19 日、相沢は有末精三中佐の紹介で永田に面会し、辞職を迫った。永田は応じなかった。

8 月 12 日 ——「相沢中佐、軍刀を抜く」

昭和 10 年(1935 年)8 月 12 日午前 9 時 45 分、陸軍省軍務局長室。永田鉄山軍務局長は新京陸軍補充部長と面談中だった。相沢三郎中佐は身分章を提示して局長室に入室、面談中の永田に対し突然軍刀を抜いた。

相沢の最初の一撃は永田の左腕を切り裂いた。永田は瞬時に応戦し、執務机の上のサーベル(身辺護身用)を取ろうとしたが、相沢の第二撃が首を斬りつけた。永田は即死、その場に倒れた。同席者の新京陸軍補充部長も軽傷を負った。

相沢は犯行後、軍刀を鞘に収め、悠然と部屋を出て参謀本部の方向へ歩いた。憲兵隊員に拘束されたが、相沢は抵抗せず、「天誅を加えた」と平然と陳述した。

陸軍省・参謀本部の幕僚は事件の報を受けて騒然となった。陸軍中央の中枢で、現役少将が現役中佐に軍刀で斬殺される — 軍隊組織の根幹を揺るがす事件だった。

相沢公判 ——皇道派の政治宣伝の場

相沢三郎は陸軍軍法会議に出廷し、永田殺害の動機を堂々と陳述した。「永田少将は、陸軍を私物化し、青年将校を弾圧し、天皇陛下のご意思に背くもの。これを斬るは天誅である」 — 公判は皇道派青年将校の政治宣伝の場と化した。

公判は秘密裁判ではなく公開され、多くの新聞記者・傍聴人が出入りした。相沢の陳述は当時の新聞で詳細に報道され、皇道派青年将校の主張が一般国民にまで伝達される結果となった。「永田を斬った義挙」という相沢の自己解釈は、皇道派系青年将校の決起意思を強く後押しすることになる。

この公判途中の昭和 11 年(1936 年)2 月 26 日、二・二六事件が勃発する。皇道派青年将校約 1,400 名が決起し、岡田啓介首相を狙い、高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・渡辺錠太郎教育総監を殺害した。決起将校たちは「永田を斬った相沢中佐を救い、皇道派の名誉を回復する」を動機の一つに掲げた。

二・二六鎮圧後、相沢の死刑判決(同年 5 月 7 日)が確定し、同年 7 月 3 日に銃殺刑に処された。享年 47。

歴史的影響

  1. 陸軍粛軍と統制派優勢の確立

二・二六事件後、陸軍は皇道派将校を一斉に粛清し、東條英機ら統制派が陸軍の主流を握った。皮肉なことに、永田を斬殺した相沢の行動と二・二六の決起は、皇道派の壊滅と統制派の完全勝利という結果を生んだ。永田が生きていれば実現したかもしれない陸軍内のバランス回復は、永田の死で逆に統制派一極化へ向かう。

  1. 「永田なき後の対米開戦」

永田鉄山は陸軍内で対英米開戦に最も慎重な戦略家だった。総力戦体制を整えると同時に、国力に見合わない戦争を抑止することを基本姿勢としていた。永田が斬殺されてから 6 年余りで、陸軍は永田が最も警戒していた対米開戦に踏み切る(昭和 16 年 12 月)。

戦後、企画院総裁を務めた鈴木貞一は「もし永田鉄山ありせば、太平洋戦争は起きなかった」と回想した。陸軍内の「失われた制動装置」を悼む言葉だった。

  1. 軍刀テロの先例化

陸軍中央で軍刀による暗殺が成功した事実は、後の軍部独走と軍内テロの「成功例」として皇道派青年将校に記憶された。二・二六事件の決起動機の一つは、相沢公判で展開された「永田を斬った義挙」の文脈にあり、軍内テロが政治を動かす経路として制度化されていく原点となった。

関連する偉人とその役割

永田 鉄山(陸軍省軍務局長 / 陸軍少将、殉職により中将追贈)

長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)に高島藩医家の子として生まれる。陸軍幼年学校次席・陸軍士官学校 16 期首席・陸軍大学校 23 期次席という三段階の最優等で陸軍中央に登った戦略家。

国家総動員体制の構築、長州閥支配の打破、対英米開戦の抑止 — 昭和初期陸軍を実質的に動かしていた統制派の中心人物だった。「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評された秀才で、リアリストとして「平和維持は軍人の最大責務なり」と説いた。

昭和 10 年(1935 年)8 月 12 日、陸軍省軍務局長室で相沢三郎中佐に軍刀で斬殺された。享年 51。墓所は青山霊園附属立山墓地。

関連する作品

中野雅夫『永田鉄山 — 昭和陸軍の運命を変えた男』(講談社、1988 年)、保阪正康『陸軍省軍務局と日米開戦』(中公文庫)、戸部良一『逆説の軍隊』(中央公論社) — 永田鉄山と相沢事件は、昭和史研究の中心テーマの一つとして継続的に論じられてきた。

立花隆『日本共産党の研究』『田中角栄研究』を著したジャーナリストたちが、戦後の日本政治を遡って論じる際、必ず通過点として相沢事件を取り上げる。「軍部独走の起点」「政治への軍内テロの制度化」「対米開戦に至る『失われた制動装置』」 — 様々な切り口から、相沢事件は昭和史の最も重い結節点として記憶され続けている。

参考資料

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