真珠湾攻撃・日米開戦
日本海軍機動部隊が米ハワイ・真珠湾を奇襲、太平洋戦争が始まる。外相・東郷茂徳が宣戦布告、陸軍次官・木村兵太郎、海軍の山口多聞も開戦時に主要ポストにあった。
ハワイ時間 12 月 7 日朝 — 太平洋戦争の始まり
真珠湾攻撃(Pearl Harbor Attack)は、昭和 16 年(1941 年)12 月 8 日午前 1 時 30 分(ハワイ現地時間 12 月 7 日午前 7 時 55 分)、南雲忠一中将率いる日本海軍第一航空艦隊の艦上機が、米国ハワイ準州オアフ島・真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲した作戦である。
空母 6 隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍・翔鶴・瑞鶴)から発進した攻撃隊計 350 機が、停泊中の米戦艦群を爆撃・雷撃。戦艦アリゾナをはじめ 8 隻の戦艦を撃沈・大破させ、米軍戦死者は約 2,400 名に達した。同じ日に陸軍はマレー半島コタバル・タイ南部に上陸、フィリピン・グアム・香港にも攻撃を開始した。
これにより、3 年 8 か月にわたる太平洋戦争(大東亜戦争)が始まる。日本にとっては、三国同盟(1940 年 9 月)・日ソ中立条約(1941 年 4 月)・南部仏印進駐(同 7 月)・対日石油禁輸(同 8 月)・ハル・ノート(同 11 月 26 日)と続いた対米関係の最終的破綻点であり、戦前日本の外交が最後に選んだ手段の現場であった。
背景 — 南部仏印進駐から ABCD 包囲網へ
事件の直接の背景は、昭和 16 年 7 月の南部仏印進駐である。第二次近衛内閣は対独伊枢軸路線の延長として、フランス領インドシナ南部に陸海軍を進駐させた。これに対し米国は対日資産凍結・石油全面禁輸で応じ、英・蘭・中(中華民国)を含めた「ABCD 包囲網」が成立した。
石油の 80% を米国に依存していた日本にとって、禁輸は致命的な打撃だった。「このまま外交で解決できなければ、石油備蓄の尽きる前に蘭印油田を確保する必要がある」 — 海軍軍令部・陸軍参謀本部はこの論理で対米開戦を要求し始めた。9 月 6 日の御前会議で「外交交渉が 10 月上旬までに妥結しない場合は開戦」との方針が決定。
10 月 18 日、対米交渉に行き詰まった近衛文麿は内閣を投げ出し、東條英機が陸相のまま組閣して内閣総理大臣を兼任する戦時内閣が発足。外相には松岡洋右の対米強硬路線からの転換を期待して東郷茂徳が起用された。野村吉三郎駐米大使・来栖三郎特派大使とハル国務長官の交渉が最終段階に入ったが、11 月 26 日にハル・ノート(中国・仏印からの全面撤退要求)が提示され、交渉は事実上決裂した。
12 月 1 日の御前会議で対米英開戦が正式決定。すでに 11 月 26 日、択捉島・単冠湾から南雲機動部隊はハワイへ向け出航していた。
12 月 8 日未明 — 「ニイタカヤマノボレ」
11 月 25 日、連合艦隊司令長官・山本五十六が真珠湾攻撃を最終承認。南雲機動部隊は無線封止のまま北太平洋を東進、12 月 2 日に「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(12 月 8 日に予定通り作戦実行)の電文を受信した。
ハワイ時間 12 月 7 日午前 6 時、真珠湾北方 230 海里の海上から第一次攻撃隊 183 機が発艦。指揮官・淵田美津雄中佐は午前 7 時 49 分に「トラ・トラ・トラ」(我、奇襲ニ成功セリ)を発信した。
午前 7 時 55 分から始まった攻撃は約 2 時間続いた。戦艦アリゾナは前部弾薬庫の誘爆で約 1,100 名の乗員と共に沈没、オクラホマ・ウェストバージニア・カリフォルニアも撃沈、ネヴァダ・テネシー・メリーランド・ペンシルバニアが大破した。航空機約 320 機を地上で破壊、米軍戦死者約 2,400 名。日本側の損害は艦上機 29 機・特殊潜航艇 5 隻・搭乗員 55 名・潜水艦員 9 名と軽微であった。
一方、ワシントンの日本大使館では「最後通告」(対米交渉打ち切り通告)のタイプ・暗号解読作業が遅延し、ハル国務長官への通告が真珠湾攻撃開始の約 1 時間後になってしまった。これが後の東京裁判で「だまし討ち」と非難される根拠となる。東郷茂徳外相は事前に攻撃開始前の通告を強く指示していたが、現場の作業ミスで実現しなかった。
12 月 8 日午前 11 時 40 分、昭和天皇は対米英宣戦の詔書を発し、開戦が公式に告げられた。
歴史的影響
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米国世論の一変 — 攻撃前の米国世論は孤立主義が根強かったが、「Remember Pearl Harbor」のスローガンで一夜にして対日参戦支持に転じた。チャーチル英首相は回想録で「これでドイツの敗北は確定した」と記した — 米国の本格参戦が枢軸国全体の運命を決した瞬間と評価される。
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短期決戦構想の破綻 — 日本側は「半年から 1 年は暴れて見せる、その後は和平」(山本五十六)という短期決戦を構想していた。だが米国は徹底抗戦に転じ、半年後のミッドウェー海戦(1942 年 6 月)で日本機動部隊主力 4 空母を失い、戦略的攻勢は終了。以後は退却戦の連続となる。
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「だまし討ち」と通告遅延 — 駐米大使館の作業遅延による通告遅れは、戦中・戦後を通じて米国の対日感情を悪化させる象徴的事実となった。戦後の調査で外相・東郷茂徳が事前通告を強く指示していたことが判明し、責任は大使館側の手続きミスに帰されたが、国際的印象は変わらなかった。
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アジアの植民地秩序の崩壊 — 同日のマレー上陸・フィリピン攻撃以降、日本軍は英仏蘭の東南アジア植民地を相次いで占領。戦後の植民地独立運動を加速させる結果となり、戦前のアジア・太平洋の植民地秩序は不可逆的に崩壊した。
関連する偉人とその役割
東郷 茂徳(外務大臣 / 宣戦詔書発布の責任者)
鹿児島・苗代川の朝鮮陶工の家系に生まれた外交官。東條内閣の外相として対米交渉の最終局面を担い、ハル・ノートを受けた後の宣戦詔書発布に関与した。「最後通告」の事前伝達を強く指示したが大使館の作業遅延で攻撃開始後の通告となり、戦後「だまし討ち」批判の責任の一端を問われた。
開戦時(東條内閣)と終戦時(鈴木貫太郎内閣)の二度外相を務めた珍しい人物。戦後 A 級戦犯として禁固 20 年判決、巣鴨で病没。本霊園 1種イ 3 号 4 側に眠り、隣接区画には松岡洋右が眠る配置となった。
木村 兵太郎(陸軍次官 / 開戦時の陸軍中枢)
東京府生まれ、本籍埼玉県。陸軍士官学校 20 期・陸軍大学校 28 期を経た砲兵畑のエリート将校で、昭和 16 年 4 月から陸軍次官として東條英機陸相(同年 10 月から首相兼任)を補佐した。日米開戦時には次官として開戦詔書の発布過程に関わり、陸軍中央の実務を取り仕切る位置にあった。
昭和 19 年 8 月、ビルマ方面軍司令官として現地着任。退却戦の指揮を執るが終戦を迎え、戦後 A 級戦犯として東京裁判で死刑判決。昭和 23 年(1948 年)12 月 23 日、東條英機ら 6 名と共に巣鴨拘置所で絞首刑が執行された。本霊園 1種イ 4 号 1 側(立山墓地)に眠る。真珠湾の朝に陸軍中央にいた次官が、7 年後に絞首台に立つまでの軌跡が、彼の墓に刻まれている。
山口 多聞(第二航空戦隊司令官 / 真珠湾攻撃参加)
島根県松江出身、海軍兵学校 40 期、プリンストン大学留学経験を持つ米国通の海軍士官。第二航空戦隊司令官として蒼龍・飛龍を率い、南雲機動部隊の主力として真珠湾攻撃に参加した。米国の工業力・国民性を深く理解していた山口は、開戦に対して慎重な立場を取りつつ、軍人として与えられた任務を遂行した。
真珠湾の半年後、ミッドウェー海戦(1942 年 6 月)で機動部隊主力 4 空母を喪失する中、旗艦・飛龍だけで反撃を継続して米空母ヨークタウンを撃破。最後は飛龍と運命を共にし戦死した。享年 49。本霊園 1種ロ 8 号 1・14 側に墓標が建てられ、加藤高明・浜口雄幸・井上準之助・犬養毅らと同じ区画に眠る。
松岡 洋右(前外相 / 三国同盟の主導者)
山口・光市出身、第二次近衛内閣の外相として日独伊三国同盟(1940 年 9 月)・日ソ中立条約(1941 年 4 月)を主導した。独ソ戦勃発(1941 年 6 月)で構想が崩壊し、近衛内閣総辞職で松岡を外した第三次近衛内閣が組閣された 5 か月後に、日米は開戦した。
開戦時には政界の表舞台から退いていたが、対米強硬路線の枠組みを作った人物として戦後 A 級戦犯に起訴された。公判中の昭和 21 年(1946 年)6 月に結核で病死。本霊園 1種イ 3 号 1 側に眠る。
関連する作品
- 映画『トラ・トラ・トラ!』(1970 年、リチャード・フライシャー / 舛田利雄 / 深作欣二監督) — 日米共同制作、攻撃前後の意思決定過程と戦闘場面を双方の視点で描いた古典的作品
- 半藤一利『ノモンハンから真珠湾へ』(平凡社、2010 年) — 開戦に至る軍部の意思決定を実証的に追跡
- 映画『連合艦隊司令長官 山本五十六』(2011 年、成島出監督) — 役所広司主演、開戦に反対しながらも真珠湾攻撃を指揮した山本の苦悩を描く
- NHK スペシャル『真珠湾への道』シリーズ — 開戦に至る半年間の外交・軍事の動きを総合的に検証
ハワイ・オアフ島の真珠湾(Pearl Harbor)には現在、戦艦アリゾナ記念館(USS Arizona Memorial)が湾内のアリゾナ船体の上に建ち、年間 200 万人以上が訪れる。日米双方の戦死者を追悼する空間として、太平洋戦争を考える上で最も象徴的な場所の一つとなっている。