永田 鉄山 (1884-1935)の肖像
永田 鉄山の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

永田 鉄山

ながた てつざん

Nagata Tessan

「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評された統制派の中心。陸軍省軍務局長室で相沢三郎中佐に斬殺された。

生没年
出身地
長野県諏訪郡上諏訪町(現・長野県諏訪市)
死没地
東京府東京市麹町区永田町(陸軍省軍務局長室)
時代
明治・昭和
役職
陸軍中将
区画
青山霊園附属立山墓地
タグ
統制派 / 相沢事件 / 陸軍中将 / 国家総動員

「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」

永田鉄山は、陸軍幼年学校次席・陸軍士官学校首席・陸軍大学校次席という三段階の最優等で陸軍中央に登った戦略家である。陸軍内では「将来の陸軍大臣」と早くから目され、昭和初期の陸軍を実質的に動かしていた統制派の中心人物だった。

その思想の核は二つ。第一に国家総動員 — エーリヒ・ルーデンドルフの総力戦理論に学び、次の戦争は国家経済・産業・国民総力を結集する戦争になると見抜き、内閣資源局と陸軍省動員課の設置を主導した。第二に陸軍内部改革 — 長州閥支配を断ち切り、実力本位の人事を確立しようとした。

しかしこの改革路線は皇道派(真崎甚三郎・荒木貞夫らを擁する青年将校系の派閥)と激しく対立し、昭和 10 年(1935 年)8 月 12 日、陸軍省軍務局長室で相沢三郎中佐に軍刀で斬殺される。享年 51。

死後、鈴木貞一は「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」と回想した。リアリストとして「平和維持は軍人の最大責務なり」と説き、国力に見合わない無謀な戦争を抑止する位置にいた一人が、陸軍内部の派閥抗争で消えた事件だった。

諏訪藩医の家、陸士首席で登り詰める

明治 17 年(1884 年)、長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)に生まれる。永田家は代々高島藩(諏訪藩)の藩医を務めた家で、父は郡立高島病院長。武家ではなく医家の出身だった。

陸軍幼年学校次席、明治 37 年(1904 年)に陸軍士官学校 16 期を首席で卒業。同期には岡村寧次・小畑敏四郎がおり、後に「陸士 16 期の三羽烏」と呼ばれた。陸軍大学校 23 期も次席で卒業し、エリートコースを駆け上がっていく。

ドイツ留学(駐在武官)で第一次世界大戦後のドイツ軍の総力戦研究に触れたのが、その後の永田の思想の出発点となった。塹壕戦・毒ガス・潜水艦・航空機 — 工業化された総力戦の現実は、永田の目に「次の戦争は国家全体の戦争になる」と映った。

国家総動員体制の構築 — 内閣資源局を生み出す

帰国後、永田は陸軍省軍事課・整備局動員課で総動員体制の制度設計に取り組んだ。大正 15 年(1926 年)、国家総動員機関設置準備委員会幹事に就任し、内閣資源局の設置(昭和 2 年)を実現した。資源局は後に企画院へ発展し、戦時下の国家経済統制の中枢となる組織である。

陸軍省内では初代動員課長として、平時から戦時動員に向けた産業・人的資源の調査体制を立ち上げた。同時に陸軍パンフレット『国防の本義と其強化の提唱』(昭和 9 年)を主導して公刊し、軍部が経済・思想・社会の総力動員を求める声を国民に向けて発信した。

この一連の活動は、後の国家総動員法(昭和 13 年)へとつながる流れの源泉となる。永田が見ていたのは「来るべき総力戦に備える国家」であり、無謀な対外戦争を煽る思想とは別の場所に立っていた。

統制派と皇道派 — 派閥対立の中心へ

昭和初期の陸軍は、二つの派閥に大きく分かれていた。皇道派(真崎甚三郎・荒木貞夫を擁し、青年将校の精神主義に依拠)と、統制派(永田鉄山・東條英機・武藤章ら、軍中央のエリート官僚軍人)である。

両派の対立は思想・人事・戦略構想の全方位に及んだ。昭和 8 年(1933 年)6 月の陸軍全幕僚会議で、参謀本部第二部長だった永田は「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない」と発言し、対ソ即時開戦を主張する小畑敏四郎(皇道派)と激しく対立した。

昭和 10 年(1935 年)7 月、真崎甚三郎教育総監が更迭される人事を永田が画策したと皇道派側に喧伝され、永田は青年将校から「悪の中枢」として標的にされる立場に置かれた。

相沢事件 — 軍務局長室の白昼

昭和 10 年(1935 年)8 月 12 日、午前 9 時 45 分。陸軍省軍務局長室。

歩兵第 41 連隊附の相沢三郎中佐が軍刀を抜き、執務中の永田鉄山に斬りかかった。永田は瞬時に応戦したが、首を斬られ即死。陸軍省内、陸軍中央の中枢中の中枢で、現役中佐が現役少将を白昼に斬殺するという未曽有の事件だった。

相沢は皇道派青年将校で、「永田は天皇陛下を欺き、軍を私するもの」と確信していた。その思想的背景には、辻政信や片倉衷ら統制派幕僚との対立、士官学校事件(昭和 9 年 11 月)以来の青年将校弾圧への怒りがあった。

事件は半年後の二・二六事件(昭和 11 年 2 月 26 日)の引き金となる。皇道派青年将校が決起した二・二六事件の動機の一つは「永田を斬った相沢を救い、皇道派の名誉を回復する」であった。永田の死は、相沢→二・二六→粛軍→東條内閣→開戦という、昭和史の一筋の流れを開いた。

逸話・エピソード

「あの時、犬養首相を殺すべきではなかった」

昭和 7 年(1932 年)5 月 15 日の五・一五事件で、海軍青年将校が犬養毅首相を首相官邸で射殺した。後年、永田は教え子に五・一五事件の評価を問われ、こう答えたという。

「あの時、首相を殺すべきではなかった。犬養首相は青年将校に対し『話せば分かる』と言われた。あの一言は古今の名将にもまさる床しさを感じる」 — リアリストとして総力戦に備える戦略家であった永田は、テロによる政治家暗殺を一貫して批判した。皇道派青年将校との隔たりは、思想・戦略のみならず、政治倫理においても深かった。

その永田自身が、3 年後に軍刀でテロの犠牲となる。皮肉な結末だった。

鈴木貞一の回想 ——「永田ありせば、開戦はなかった」

戦後、企画院総裁を務めた鈴木貞一は永田鉄山についてこう述べている。「もし永田鉄山ありせば、太平洋戦争は起きなかった」。

陸軍内で永田は、対英米開戦に最も慎重な戦略家だった。国家総動員体制を整えることと、国力に見合わない戦争を開戦することは、永田の中では正反対の方向を向いていた。総力戦体制とは戦争の準備であると同時に、戦争を抑止する基盤でもある — リアリストの逆説だった。

永田が斬殺された後、陸軍の戦略判断は急速に拡大主義へ傾く。日中戦争(昭和 12 年)、独伊との三国同盟(昭和 15 年)、対米開戦(昭和 16 年)。「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」という同時代の評価は、ただの秀才評ではなく、昭和史における「失われた制動装置」を悼む言葉だった。

「相沢事件」公判で明かされた皇道派の怨念

相沢三郎は陸軍軍法会議に出廷し、永田殺害の動機を堂々と陳述した。「永田少将は、陸軍を私物化し、青年将校を弾圧し、天皇陛下のご意思に背くものである」 — 公判は皇道派青年将校の政治宣伝の場と化した。

この公判途中の昭和 11 年 2 月 26 日、二・二六事件が勃発する。皇道派青年将校 1,400 名が決起し、岡田啓介首相を狙い、高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・渡辺錠太郎教育総監を殺害した。相沢公判で「永田を斬った義挙」が宣伝されたことが、決起将校たちを後押しした。二・二六鎮圧後、相沢は死刑判決を受け、同年 7 月 3 日に銃殺刑に処された。

陸軍は二・二六後、皇道派将校を一斉に粛清し、東條英機ら統制派が陸軍の主流を握る。永田が斬殺されてから 6 年余りで、陸軍は永田が最も警戒していた対米開戦に踏み切った。

青山霊園に眠る

永田鉄山の墓は、青山霊園附属立山墓地にある。立山墓地は青山霊園の北隣に位置する別園で、明治後期から昭和期にかけて多くの陸海軍将官が葬られている。

殉職により陸軍中将に進級、正四位勲一等瑞宝章を追贈。墓には「陸軍中将永田鉄山之墓」と刻まれている。同じ青山霊園には、陸軍の先輩・奥保鞏元帥、同時代の陸軍幹部・小磯国昭らの墓もある。

墓参り写真

  • 墓所

    — 墓所

墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

← 偉人一覧に戻る