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盧溝橋事件・日中戦争開戦


北平(現北京)郊外の盧溝橋付近で夜間演習中の支那駐屯軍と国民党第二十九軍が衝突。当初は局地的小競り合いだったが、近衛文麿内閣の派兵決定で全面戦争へエスカレートし、八年間続く日中戦争の起点となった。

盧溝橋付近
盧溝橋付近 みや東亜 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
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戦争

夜の演習中に響いた銃声から始まった戦争

昭和十二年(一九三七)七月七日深夜、北平(現北京)郊外の盧溝橋付近で夜間演習を行っていた支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊(大隊長・一木清直少佐)に向けて、何者かが実弾を発射した。点呼で兵一名(志村菊次郎二等兵)の行方不明が判明し(後に隊に復帰)、大隊は近隣の宛平県城内の中国国民党第二十九軍(軍長・宋哲元)に対し捜索を要求。これが拒否されたとして、八日未明に城を包囲し砲撃を開始した。発砲の犯人は今日まで諸説あり確定していないが、結果として「日中両軍の小規模衝突」が「八年戦争」の発端となった。

背景 — 華北分離工作と中国の抗日意識高揚

事件の背景には、満州事変以降の日本陸軍による「華北分離工作」があった。関東軍と支那駐屯軍は華北五省(河北・山東・山西・チャハル・綏遠)を国民党中央政府の影響から切り離し、第二の満洲国を作る構想を進めていた。一方の中国側では西安事件(一九三六年十二月)で蒋介石が抗日への姿勢を固め、共産党と第二次国共合作の準備が進行。北平・天津周辺では日本軍駐留と中国軍の対峙が日常化しており、いつどこで偶発的衝突が起きてもおかしくない緊張状態が続いていた。盧溝橋はそうした緊張のごく一部に過ぎなかったが、それが大規模戦争へ拡大した責任は明らかに日本側の派兵決定にあった。

経過 — 近衛内閣の三度の派兵決定と全面戦争化

事件発生当初、現地では七月十一日に停戦協定が成立し、局地的解決の見込みも立っていた。だが東京では同日、近衛文麿首相が陸軍の要求を容れて関東軍と朝鮮軍の華北派遣を声明、内地三個師団の動員を決定した。八月十三日には第二次上海事変が勃発し、海軍も全面投入される。九月までに日中戦争は宣戦布告なき総力戦へと拡大した。「事変」と呼ばれた所以である。十二月十三日の南京陥落と続く南京事件(国民政府首都の占領と大規模殺戮事件)で戦争は決定的な性格を帯び、一九三八年一月十六日の近衛声明「国民政府ヲ対手トセズ」で外交による解決の道は完全に閉ざされた。

影響 — 八年間の泥沼戦争と太平洋戦争への道

日中戦争は中国の広大な空間と人民の抵抗により、日本軍にとって出口の見えない長期消耗戦となった。陸軍兵力の大半が大陸に拘束された結果、対ソ戦・対米英戦の余力は決定的に削がれていた。三年後の三国同盟、四年後の真珠湾攻撃へと連なる日米衝突の遠因が、この事件の処理の失敗にあったことは戦後の歴史学が繰り返し指摘するところである。盧溝橋の銃声から太平洋戦争まで、わずか四年五か月の駆け足の物語であった。

参考資料

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