齋藤隆夫の反軍演説(支那事変処理に関する質問演説)
立憲民政党代議士・齋藤隆夫が、衆議院本会議で支那事変処理を巡って軍部を厳しく批判する「反軍演説」を行う。後に演説の一部削除と齋藤の議員除名へ発展、戦時下日本の言論統制の象徴的事件となった。
戦時下議会で響いた孤高の批判演説
昭和十五年(一九四〇)二月二日、衆議院本会議の壇上に立った立憲民政党代議士・齋藤隆夫(当時七一歳)は、米内光政内閣に対する代表質問の形を借りて、約一時間半にわたる演説を行った。後に「反軍演説」と総称されるこの演説は、長期化する支那事変(日中戦争)の処理方針について政府と軍部を真正面から論難し、戦時体制下にあって稀有な議会的言論として記憶されることになる。事件は一個人の演説に留まらず、議事録からの本文削除、齋藤本人の議員除名(投票で賛成 296 票 対 反対 7 票)、政党解消・大政翼賛会成立への流れと並行して進行し、戦前日本における議会制度の事実上の終焉を象徴する事件となった。
背景 — 泥沼化する支那事変と「東亜新秩序」
昭和十二年(一九三七)七月の盧溝橋事件で始まった支那事変は、当初の早期解決の見通しに反して長期化していた。昭和十三年一月、近衛文麿首相は「爾後国民政府を対手とせず」声明を発表し、和平交渉の窓口を自ら閉ざす。同年十一月には「東亜新秩序声明」を、翌十四年には汪兆銘工作を通じた南京政府樹立構想を打ち出すが、いずれも具体的な戦争終結の道筋を示せていなかった。
戦費は国家予算の七〇%近くに達し、国家総動員法(昭和十三年)・国民徴用令(昭和十四年)が次々に施行され、国民生活は急速に窮乏していった。米内光政海軍大将を首班とする内閣が昭和十五年一月十六日に発足したのは、欧州大戦勃発(ドイツのポーランド侵攻)を受けて陸軍の独・伊接近路線をいったん牽制する人事であったが、支那事変の解決方針については内閣も明確な答えを持っていなかった。
齋藤隆夫はこの状況を前に、議会人として正面から問いを発しようとした。明治三十一年(一八九八)に弁護士登録、明治四十五年(一九一二)に衆議院初当選以来、立憲国民党・憲政会・立憲民政党を経て当選九回を数えるベテラン政党人。一六三センチに満たない小柄な体躯ながら、論理の精密さと文章の格調で「議会の良心」と呼ばれていた。
演説 — 「聖戦の美名」と「弱者を救うがための聖戦か」
二月二日午後、齋藤は登壇する。原稿はおよそ二万字、朗読時間一時間二十分余。その骨子は次の通りである。
第一に、政府は支那事変処理の具体的方針を明示せよ。「東亜新秩序」「八紘一宇」といった抽象的標語ではなく、戦争終結の条件・国民への負担見通し・対外関係の整理方法を、議会と国民に示す義務がある。
第二に、近衛声明以来の「国民政府を対手とせず」方針と、その後の汪兆銘工作との整合性を問う。両者は明白に矛盾しており、政府は事変開始から二年半を経てなお戦略的判断を放置している。
第三に、聖戦・道義といった概念に基づく説明への根本的疑念。とりわけ次の一節は議場を震撼させた。
国家競争は道理の競争ではない。正邪曲直の競争ではない。徹頭徹尾力の競争である。(中略)この現実を無視して、ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない。
「弱者を救うがための聖戦か」「強者の弱者に対する圧迫ではないか」という畳みかけは、東亜新秩序の理念そのものに対する根本的な懐疑として響いた。議場の空気は凍りつき、軍部出身議員や陸軍省・軍務局からの抗議が即座に開始された。
経過 — 議事録削除と三月七日の議員除名
米内首相は答弁で「政府の方針は確固たるものがある」と簡潔に応じたのみで、具体的な反論は避けた。しかし陸軍は激しく反応し、畑俊六陸相を通じて議会に対し議事録の削除と齋藤の処分を強く要求する。立憲民政党(町田忠治総裁)は党内から齋藤を擁護できず、二月七日には演説の後半部分が議事録から「不穏当」として削除された。
民政党は二月二十六日に齋藤を除名処分とし、続いて衆議院議員除名問題に発展。三月七日、衆議院本会議で齋藤隆夫の議員除名動議が採決され、賛成 296 票 対 反対 7 票という圧倒的多数で可決された。反対票を投じたのはわずか七名、退場・棄権を含めても齋藤を擁護する勢力は無に等しかった。賛成多数で除名された齋藤は、議員バッジを外して議場を去る。
事件はこれで終わらない。同年六月、近衛文麿を中心とする新体制運動が本格化し、七月二十二日に第二次近衛内閣が成立すると、八月十五日に立憲民政党が、続いて政友会・社会大衆党などすべての政党が解党して大政翼賛会に合流する。齋藤の除名は議会政治崩壊への号砲であった。
影響 — 翼賛選挙での復活と戦後の名誉回復
齋藤は除名後も故郷の兵庫県豊岡で言論活動を続け、昭和十七年(一九四二)四月三十日のいわゆる翼賛選挙で、推薦候補ではない非推薦候補として立候補。多くの非推薦候補が落選するなか、齋藤は地元の絶大な支持で堂々と当選を果たし、衆議院議員に復帰した。除名から二年余、戦時下日本で議会人が政治信念を貫いて選挙民の信認を得た稀有な事例である。
敗戦後の昭和二十一年(一九四六)五月、第一次吉田茂内閣で齋藤は国務大臣に就任。同年戦犯指名から外され、戦時中の言論抵抗の象徴として戦後民主主義の文脈で再評価された。昭和二十四年(一九四九)十月十日、八十歳で死去。本霊園に眠る。
現代における反軍演説の評価は、戦前日本における言論抑圧の極限事例としてだけでなく、議会制度が形骸化する局面でなお発せられた「正論」の意義そのものをめぐる議論として続いている。教科書記述に必ず登場する事件であり、議場速記録の削除部分は戦後の研究で復元され、岩波文庫『齋藤隆夫政治論集』等で全文が読める。