ミッドウェー海戦
米空母艦載機の急降下爆撃で日本機動部隊の主力 4 空母(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)を喪失。第二航空戦隊司令官・山口多聞が飛龍と運命を共にした太平洋戦争の転回点。
太平洋戦争の転回点となった海上決戦
ミッドウェー海戦は、昭和 17 年(1942 年)6 月 5 日から 7 日(日本時間)にかけて、中部太平洋・ミッドウェー諸島沖で行われた日米海軍の航空戦である。日本連合艦隊と米太平洋艦隊が空母機動部隊を中心に激突し、日本側は主力空母 4 隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)を喪失する大敗北を喫した。
真珠湾攻撃(昭和 16 年 12 月)以来の日本海軍の連戦連勝が終わり、戦略的主導権が米側に移った戦争の転回点である。本サイトに眠る第二航空戦隊司令官・山口多聞海軍中将が、旗艦・飛龍と運命を共にした海戦としても知られる。
背景 — 緒戦の連戦連勝と作戦の動機
開戦から半年、日本海軍は真珠湾攻撃(1941 年 12 月)、マレー沖海戦(同月、英戦艦プリンス・オブ・ウェールズ撃沈)、蘭印作戦(1942 年 1-3 月)、インド洋作戦(同年 4 月、英空母ハーミーズ撃沈)と連戦連勝を重ねていた。「日本海軍は無敵」という気分が艦隊上層部に広がっていた。
連合艦隊司令長官・山本五十六は、緒戦の優勢を保つには米空母機動部隊を早期に殲滅する必要があると判断、ミッドウェー攻略を口実に米空母を誘い出す作戦を立案した。作戦名は MI 作戦。
しかし、作戦には複数の根本問題があった:
- 目的の二重化: ミッドウェー島攻略と米空母艦隊撃滅という 2 つの目的が重複し、現場の判断を混乱させた
- 戦力分散: アリューシャン方面への陽動作戦に空母 2 隻を割き、ミッドウェー方面は 4 空母のみに
- 暗号解読: 米海軍情報部 (HYPO) が日本海軍暗号 JN-25b の一部を解読、作戦概要が事前に米側に把握されていた
6 月 5 日朝 — 運命を分けた兵装転換
昭和 17 年 6 月 5 日(日本時間)午前 1 時 30 分、南雲忠一中将率いる第一航空艦隊(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)はミッドウェー島攻撃を開始。第一次攻撃隊が島を爆撃するが、戦果は不十分との報告が入る。
ここで作戦は混乱を始める。
午前 4 時頃: 第二次攻撃に向けて、艦内では陸上目標用の爆弾を航空機に装着する作業が進む。
午前 5 時 20 分: 偵察機から「米艦隊発見」の報告。南雲は、すでに陸用爆弾を装着し終えた攻撃機を、対艦攻撃用の魚雷に交換するよう命じる。これが致命的な「兵装転換」となる。
午前 6 時 30 分: 米艦に空母が含まれるという情報が入り、南雲はさらに兵装転換を急ぐ。格納庫には燃料の入った燃料管、装着途中の爆弾と魚雷、整備中の機体が乱雑に並んだ状態となっていた。
この間、第二航空戦隊司令官・山口多聞は南雲司令部に「現状の兵装(陸用爆弾装着済み)のまま、ただちに発進すべし」と進言した。しかし南雲司令部は転換完了を待つ判断を取った。
わずか 5 分で 3 空母大破 — 急降下爆撃機の到来
午前 7 時 24 分: 米空母エンタープライズの SBD ドーントレス急降下爆撃機部隊が日本機動部隊上空に到着。日本側の零戦隊は低空での米雷撃機防衛に集中しており、高空からの急降下に対応する戦闘機が不在だった。
午前 7 時 25 分: 赤城・加賀・蒼龍に急降下爆撃機の爆弾が命中。格納庫で兵装転換中の機体に引火、誘爆の連鎖で 3 空母は大破炎上。事実上わずか 5 分で日本機動部隊の主力 3 空母が戦闘不能となった。
残ったのは第二航空戦隊・山口多聞の飛龍のみ。
山口多聞の反撃と飛龍の最期
山口多聞は炎上する 3 空母の状況を即座に把握し、反撃を決断する。
午前 7 時 40 分: 飛龍から第一次反撃隊(小林道雄大尉指揮、艦爆 18 機・零戦 6 機)を発進、米空母ヨークタウンを 3 弾命中で大破させる。
午前 10 時 30 分: 第二次反撃隊(友永丈市大尉指揮、艦攻 10 機・零戦 6 機)を発進、ヨークタウンに魚雷 2 本命中、航行不能に追い込む。
しかし飛龍の位置は米側に把握されていた。
午後 1 時 03 分: 米空母エンタープライズの第三次攻撃隊が飛龍を発見、4 弾命中で大破。
午後 9 時頃: 飛龍は炎上・航行不能となる。
6 月 6 日午前 2 時 30 分: 山口多聞は加来止男艦長と協議、艦と運命を共にすることを決断。乗組員に総員退艦を命じた後、艦橋に残った両名は、駆逐艦巻雲が放った魚雷で艦が沈むのを待った。
山口は乗組員に「責任は司令官の自分にある」と伝え、軍刀を退艦者の梶原大尉に託したと証言が残る。享年 49。
戦果と損害 — 「太平洋戦争の転回点」
| 日本 | 米国 | |
|---|---|---|
| 空母喪失 | 4 隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍) | 1 隻(ヨークタウン、後日潜水艦に撃沈) |
| 重巡洋艦 | 1 隻喪失(三隈) | 0 隻 |
| 航空機 | 約 290 機 | 約 150 機 |
| 戦死 | 3,057 名 | 307 名 |
日本側の航空機損失と熟練搭乗員の喪失は、以後の戦況に決定的な影響を与えた。育成に数年を要する熟練艦載機搭乗員を一度に失った日本海軍は、二度と海戦の主導権を取り戻せなかった。
歴史的影響
1. 戦略的主導権の交代
ミッドウェー海戦以後、日本海軍は防勢に転じ、米軍が攻勢を取る構図が定着する。続くガダルカナル攻防戦(1942 年 8 月-1943 年 2 月)で日本陸海軍は消耗し、以後の太平洋戦線は後退の連続となった。
2. 機動部隊運用の革新
本海戦は世界海戦史上初めて、艦隊主力が一度も視認しないまま航空機のみで決着がついた海戦である。「主力艦同士の艦隊決戦」という思想は事実上終焉し、空母機動部隊の運用がその後の海軍戦略の中心となった。
3. 暗号解読の重要性
米海軍が日本軍暗号 JN-25b を部分解読していたことが勝因の一つだった。情報戦の決定的重要性が示され、戦後の暗号・情報技術への投資強化につながった。
4. 戦後の戦争責任論への影響
南雲忠一司令部の「兵装転換命令」、山本五十六の作戦設計の問題、艦隊運用の硬直性 — ミッドウェー海戦の敗北原因を巡る議論は、戦後の旧海軍関係者・歴史学者の間で何十年も続いた。山口多聞の「即時発進すべし」の進言が容れられなかった判断は、「もし容れられていれば」の歴史 IF として今も語り継がれる。
関連する偉人とその役割
山口 多聞(第二航空戦隊司令官 / 海軍中将)
島根県松江市出身、海軍兵学校 40 期、米国プリンストン大学留学・駐米武官を歴任した米国通の航空戦指揮官。「闘将」と呼ばれた。
ミッドウェー海戦では、南雲司令部の判断遅延に対し即時発進を強く進言、却下された。3 空母被弾後は反撃を即断し、ヨークタウンを大破させる戦果を挙げた。最後は加来止男艦長と共に飛龍の艦橋に残り、艦と運命を共にした。享年 49。連合艦隊司令長官・山本五十六は彼の戦死を「日本海軍最大の損失」と嘆き、米国海軍史家サミュエル・モリソンも「太平洋戦争で最も恐れた敵将の一人」と評している。
本霊園 1種ロ 8 号 1・14 側に墓標が建てられた。遺骸は飛龍とともに海底に沈んでいる。
関連する作品
- 映画『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』(1960 年、東宝、松林宗恵監督) — 三船敏郎が山口多聞役で出演、東宝戦記映画の代表作
- 星亮一『山口多聞 — 空母飛龍に殉じた果断の提督』(1998 年、PHP 文庫) — 山口の生涯を中心にした評伝
- 松田十刻『山口多聞 — 空母「飛龍」と運命を共にした不屈の名指揮官』(光人社 NF 文庫) — 米国海軍史料との突合で描いた評伝
- 映画『ミッドウェイ』(2019 年、ローランド・エメリッヒ監督) — ハリウッド版、日本側で浅野忠信が山口多聞を演じる
ハワイ・パールハーバー国立記念館とミッドウェー戦没者記念施設には、両軍の戦死者を悼む顕彰文があり、山口多聞の名も米軍側の記録に「最後まで戦った敵将」として記されている。