山口 多聞 (1892-1942)の肖像
山口多聞(海軍中将) Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

山口 多聞

やまぐち たもん

Yamaguchi Tamon

海軍中将。米国通の航空戦専門家としてミッドウェー海戦で第二航空戦隊を指揮、旗艦・飛龍と運命を共にした名将。

生没年
出身地
島根県松江市
死没地
ミッドウェー海上(空母飛龍と共に戦死)
時代
大正・昭和
役職
海軍中将
爵位
正四位勲一等功二級
出身校
海軍兵学校(40期) / 海軍大学校 / プリンストン大学(駐在武官)
受勲
勲一等旭日大綬章 / 功二級金鵄勲章
区画
1種ロ8号1・14側
タグ
海軍中将 / 第二航空戦隊 / ミッドウェー海戦 / 飛龍 / 太平洋戦争

「闘将」と呼ばれた航空戦の名指揮官

山口多聞は、太平洋戦争緒戦期の日本海軍を代表する航空戦の指揮官で、ミッドウェー海戦(昭和17年6月)で第二航空戦隊司令官として旗艦・飛龍を率い、被弾後も最後まで反撃戦を指揮して空母とともに戦死した海軍中将である。明治25年(1892年)8月17日、島根県松江市で生まれる。海軍兵学校40期を卒業後、海軍大学校を経て、米国プリンストン大学に留学・駐在武官として勤務した米国通として知られた。

ミッドウェー海戦では、南雲忠一中将率いる第一航空艦隊の麾下で第二航空戦隊(蒼龍・飛龍)を指揮。6月5日朝、米空母エンタープライズ・ヨークタウン・ホーネットの急降下爆撃で赤城・加賀・蒼龍が大破炎上する中、飛龍だけが残った。山口は反撃を即断、急降下爆撃隊・雷撃隊を発進させて米空母ヨークタウンを大破に追い込む。その夜、飛龍も米空母艦載機の攻撃で炎上、6月6日未明、山口は艦と運命を共にすることを選び、加来止男艦長と共に飛龍の艦橋で戦死した。享年49。

連合艦隊司令長官・山本五十六の後継候補と目されていた逸材で、米国海軍史家サミュエル・モリソンも「太平洋戦争最高の海軍提督の一人」と評している。

島根の士族の子から海軍兵学校へ

明治25年(1892年)8月17日、島根県松江市の士族・山口宗義の長男として生まれる。父は松江藩士の家系で、明治政府の警察官吏。少年期から成績優秀で、明治41年(1908年)、海軍兵学校に入校(40期)。

大正元年(1912年)に兵学校を卒業し、海軍少尉に任官。日露戦争のすぐ後の時代、海軍が戦艦中心の編成から航空主兵に踏み出していく時代の士官として、その変化の最前線に立つことになる。

米国通として — プリンストン留学

大正10年(1921年)から大正12年(1923年)まで、米国プリンストン大学に留学。続いて昭和9年(1934年)から昭和11年(1936年)まで、ワシントン駐在の海軍武官を務める。

山口は流暢な英語と米国社会への深い理解を備えた米国通として、海軍内で異色の存在だった。彼の戦時論文・教範には「米国民の生活水準と工業生産力を侮ってはならない」という一貫した警告が見られる。日米開戦に対しては慎重論の立場で、太平洋戦争開戦前夜の海軍内会議でもその姿勢を変えなかった。

第二航空戦隊司令官 — 蒼龍と飛龍

昭和15年(1940年)11月1日、第二航空戦隊司令官に着任。蒼龍・飛龍の2空母を麾下にもつ機動部隊指揮官として、開戦時には真珠湾攻撃(昭和16年12月)に参加した。

緒戦の蘭印作戦・インド洋作戦で、山口の第二航空戦隊は南雲機動部隊の主力として連戦連勝。蒼龍・飛龍は航空戦の運用で第一航空戦隊(赤城・加賀)と並ぶ評価を確立した。

ミッドウェー海戦 — 6月5日朝

昭和17年(1942年)6月5日朝、ミッドウェー島攻撃を行った南雲機動部隊は、米空母群の所在を巡って情報錯綜の中、攻撃機の兵装転換(陸用爆弾→対艦魚雷→陸用爆弾)を繰り返していた。

山口はこの最中、南雲司令部に対し「現状の兵装のまま、ただちに発進」を強く進言したが、南雲司令部は転換完了を待つ判断を取った。その直後、米急降下爆撃隊が突入。格納庫に魚雷・爆弾を抱えた赤城・加賀・蒼龍は連鎖爆発で炎上、わずか5分で日本機動部隊の主力3空母が戦闘不能となった。

山口の旗艦・飛龍だけが残った。山口は即座に反撃を決断、午前と午後に2波の攻撃隊を発進させ、米空母ヨークタウンを大破させた(後にヨークタウンは曳航中に潜水艦に撃沈される)。日本海軍がミッドウェーで挙げた唯一の戦果である。

6月6日未明 — 飛龍と共に

その日の夕方、米空母エンタープライズの急降下爆撃機が飛龍を直撃。飛龍は炎上、航行不能となる。

6月6日未明、山口は加来止男艦長と協議、艦と運命を共にすることを決断。乗組員に総員退艦を命じた後、艦橋に残った両名は、駆逐艦・巻雲が放った魚雷で艦が沈むのを待った。山口は乗組員に「責任は司令官の自分にある」と伝え、軍刀を退艦者に託したという証言が残る。享年49。

連合艦隊司令長官・山本五十六は彼の戦死を「日本海軍最大の損失」と嘆いた。米海軍は戦後、山口を「太平洋戦争で最も恐れた敵将の一人」として記述している。

逸話・エピソード

「闘将」と呼ばれた所以

山口は部下に対して厳しく、訓練では妥協を許さない指揮官として知られた。第二航空戦隊の搭乗員たちは「山口閣下の前では失策は許されない」と緊張したが、戦闘後には飛行甲板まで降りて一人ひとりの肩を叩いて労ったという。この「鬼と仏」の落差が「闘将」と呼ばれた由縁で、ミッドウェーの最期に部下を退艦させて自らは艦に残った判断も、この指揮官像と一貫している。

プリンストン仕込みの英語

米国留学時代、山口はプリンストン大学のクラブで米国の学生たちと議論を重ね、流暢な英語を身につけた。帰国後も海軍内で英語の原書を読み続け、米国海軍の機関紙『プロシーディングス』を毎号取り寄せて研究したと伝わる。日米開戦に慎重だった姿勢は、米国を頭で知っているのではなく肌で知っていたことから来ていた。

最期の月見酒

6 月 6 日未明、飛龍が傾き始める中、山口と加来止男艦長は艦橋で最後の盃を交わしたと伝わる。月明かりの太平洋を見ながら「いい眺めだ」と山口が言い、加来が「司令官、お先に」と返したという証言が、退艦した参謀の戦後手記に残る。49 歳の海軍中将の最期は、武人らしい静けさで満ちていた。

青山霊園に眠る

山口多聞の遺骸は飛龍と共に海中に沈み、青山霊園 1種ロ8号1・14側に墓標が建てられた。同じ「1種ロ8号」の区画には、加藤高明浜口雄幸井上準之助犬養毅頭山満牧野伸顕松平恒雄大達茂雄、そして上野英三郎・忠犬ハチ公が眠る。戦前日本の政治・経済・外交・軍事の中枢を担った人々が、この一画に集まっている。

米国通として戦争に慎重だった海軍士官が、最後はミッドウェーの海上で空母とともに沈む — 山口多聞の生涯は、近代日本が米国とどう向き合い、どこで判断を誤ったかを問い続ける、戦中史の象徴的な存在である。

墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

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