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沖縄戦(米軍沖縄本島上陸)


米軍主力第十軍十八万が沖縄本島中部西海岸に上陸を開始。第三十二軍司令官牛島満中将率いる日本軍は本島南部で持久戦を展開し、六月二十三日の組織的戦闘終結まで八十二日間継続。住民を含め二十万人以上が犠牲となった日本本土上の唯一の地上戦であった。

Tomori Stone Lion (18 June 1945)
Tomori Stone Lion (18 June 1945) Unknown authorUnknown author / Wikimedia Commons / Public domain
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戦争

鉄の暴風が降り注いだ八十二日間

昭和二十年(一九四五)四月一日午前八時三十分、米第十軍主力(司令官・サイモン・ボリバル・バックナー中将)約十八万三千名が、沖縄本島中部西海岸の嘉手納・読谷海岸に上陸を開始した。事前の艦砲射撃と空襲は「鉄の暴風(タイフーン・オブ・スティール)」と呼ばれ、米艦隊は戦艦十八隻・空母四十隻を含む千五百隻以上、上陸支援航空機千七百機という史上空前の規模であった。日本側の第三十二軍(司令官・牛島満陸軍中将)は約十一万、うち正規軍は約七万に過ぎず、装備も米軍に比して圧倒的に劣っていた。沖縄戦は日本本土の領土上で行われた唯一の本格的地上戦であり、住民を含む被害は他のいかなる戦域とも質的に異なる悲劇を生んだ。

背景 — 絶対国防圏崩壊と本土決戦準備

一九四四年七月のサイパン陥落、十月のレイテ沖海戦敗北、一九四五年二月の硫黄島陥落と、太平洋の戦線は急速に日本本土に迫っていた。大本営は本土上陸を遅延させるべく、沖縄を「本土の防波堤」と位置付け、第三十二軍を編成して防御を準備した。当初は決戦兵団として第九師団が配備されていたが、台湾防衛のため転出され、第三十二軍は決戦能力を失った状態で戦闘を迎えることになった。司令官牛島満は中央の決戦命令に応じず、複雑な丘陵地形を活かした持久戦・洞窟戦に切り替え、米軍の出血と本土上陸の遅延を最大化する戦略を採用した。

経過 — 首里防衛戦と摩文仁の悲劇

米軍は上陸後北部を制圧し、四月八日から本島中部南部の日本軍主陣地(嘉数高地・前田高地)を攻撃した。日米双方が一進一退の死闘を繰り広げ、米軍も指揮官バックナー中将を含む大損害を被った。五月二十二日、牛島は首里司令部からの撤退を決定し、本島南端の摩文仁(まぶに)へ司令部を移転。住民を含む大量の避難民が戦闘地域に取り残される事態となった。鉄血勤皇隊・ひめゆり学徒隊など中等学校生徒の動員、集団自決、米軍の火炎放射器による洞窟焦土化など、戦争の悲惨が極限まで凝縮された二か月間が続いた。六月二十三日、牛島と長勇参謀長は摩文仁の司令部洞窟で自刃。組織的戦闘は終結した。

影響 — 二十万人の死者と戦後沖縄の出発点

沖縄戦の死者総数は日本側軍人約九万四千、住民約九万四千、米軍約一万二千、合計推定二十万人以上。沖縄県の戦前人口約六十万人のうち四分の一近くが死亡または行方不明となった。沖縄戦の凄惨さは日本政府に本土決戦の現実を突きつけ、ポツダム宣言受諾(八月十四日)の決断を間接的に後押しした側面もある。本霊園に眠る牛島満は陸軍士官学校長などを経て第三十二軍司令官に着任、米軍の圧倒的物量に対し持久戦で八十二日間を戦い抜いた指揮官として、戦後も毀誉褒貶相半ばする評価を受け続けている。沖縄戦は彼の最期の戦場であり、戦後の沖縄が直面する米軍統治・基地問題の長い歴史の出発点でもあった。

参考資料

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