牛島 満
うしじま みつる
Ushijima Mitsuru
沖縄戦で第32軍司令官として戦い、摩文仁の司令部壕で自決した陸軍大将。鹿児島出身、陸軍士官学校長を歴任した武人。
沖縄の摩文仁で自決した第32軍司令官
牛島満は、太平洋戦争末期の沖縄戦で第32軍司令官として日米最大規模の地上戦を指揮し、摩文仁の司令部壕で長勇参謀長とともに自決した陸軍大将である。明治 20 年(1887 年)鹿児島市の士族の家に生まれ、陸軍士官学校第 20 期を卒業して陸軍歩兵将校の道を歩んだ。歩兵第 36 連隊長・歩兵学校長・第 11 師団長・陸軍士官学校長を歴任し、温厚で部下に慕われる「徳の人」と評された。
昭和 19 年(1944 年)8 月、第32軍司令官として沖縄に着任。米軍の本土侵攻を遅延させる「戦略持久戦」の任を負った。翌 20 年(1945 年)4 月 1 日、米軍 18 万が沖縄本島中部に上陸、3 か月にわたる地獄の地上戦が始まる。日本軍は首里の地下司令部壕を拠点に粘り強く抵抗したが、5 月末に首里を放棄、南部の摩文仁に撤退した。6 月 22 日(一説に 23 日)未明、牛島は長勇参謀長とともに摩文仁岳東南斜面の司令部壕前で割腹自決した。享年 57。
沖縄戦の犠牲者は日米軍人だけでなく、戦闘に巻き込まれた沖縄県民が約 12 万人と推定される。牛島は最期に「最後迄敢闘し悠久ノ大義ニ生クベシ」と訓示し、軍人としての死を選んだ。その判断の是非は今も論争の対象だが、沖縄戦は太平洋戦争で日本本土で行われた唯一の本格的地上戦として、戦後日本の記憶に深く刻まれている。
鹿児島から陸軍歩兵将校へ
明治 20 年(1887 年)7 月 31 日、鹿児島市加治屋町に陸軍少佐・牛島実満の長男として生まれる。加治屋町は西郷隆盛・大久保利通・東郷平八郎ら明治の元勲を多数輩出した町で、薩摩士族の伝統が色濃く残る環境だった。鹿児島陸軍地方幼年学校から中央幼年学校、陸軍士官学校第 20 期(1908 年卒業)を経て歩兵将校となった。
陸軍大学校第 28 期(1916 年卒業)を恩賜の軍刀組として卒業し、エリート軍人の道を歩む。歩兵第 23 連隊大隊長、参謀本部員、陸軍歩兵学校教官・幹事を歴任。歩兵戦術の専門家として、若手将校の教育に長く携わった。「教育者としての軍人」という側面は、彼の生涯を貫く特徴となった。
陸軍士官学校長 — 「徳の人」の評判
昭和 17 年(1942 年)4 月から昭和 19 年(1944 年)8 月まで、陸軍士官学校長を務めた。温厚で寛容、生徒に深い愛情を注ぐ校長として、卒業生たちから生涯慕われた人物だった。「徳の人」「武人の鑑」と評され、戦後も多くの卒業生が「われわれの校長は牛島閣下だった」と誇りをもって語り続けた。
陸軍内では決して派閥的に強い立場ではなく、政治的野心も希薄だったとされる。沖縄第32軍司令官への補職は、戦況が絶望的に傾いた中で「死地」を任せられる人物として選ばれた側面が強い。
沖縄戦 — 戦略持久戦から摩文仁の自決へ
昭和 19 年(1944 年)8 月、第32軍司令官として沖縄に着任。第32軍は当初 10 万近い兵力を有したが、レイテ防衛のため精鋭の第 9 師団が抽出され、残された兵力は約 6 万。米軍の本土侵攻を 1 日でも遅らせる「戦略持久戦」が任務として与えられた。
昭和 20 年(1945 年)4 月 1 日、米軍は沖縄本島中部の読谷・嘉手納海岸に上陸。日本軍は首里城地下に司令部壕を構えて頑強に抵抗し、米軍司令官バックナー中将を戦死させるほどの善戦を見せた。だが圧倒的な戦力差の前に 5 月末に首里を放棄、南部の摩文仁に撤退する。この撤退で南部に集中していた沖縄県民が戦闘に巻き込まれ、犠牲が拡大した。
6 月 18 日、米軍の総攻撃が摩文仁地区に迫る中、牛島は大本営宛に決別電報を発信した。「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」 — これは海軍沖縄方面根拠地隊司令官・大田実少将の電文として有名だが、牛島自身も県民への謝意を残した訓示を遺した。
6 月 22 日未明(一説に 23 日)、摩文仁岳東南斜面の司令部壕前で、長勇参謀長とともに割腹自決。享年 57。8 月 15 日の終戦から逆算すると、わずか 2 か月前の死だった。
戦後の評価 — 沖縄戦の記憶のなかで
牛島の死から 23 日後の 7 月 16 日、米軍は沖縄戦の終結を宣言した。沖縄戦の戦死者は日本軍約 9 万、米軍約 1 万 2,500、沖縄県民約 12 万と推定される(諸説あり)。県民の犠牲の大きさから、第32軍が南部撤退を選んだ判断、戦闘継続を最後まで命じた判断には、戦後沖縄から厳しい批判が向けられた。
一方で、陸軍士官学校長時代の温厚な人物像、卒業生たちの慕情、戦地での部下への配慮、最後まで投降せず軍人としての死を選んだ姿は、軍人の世界では「徳の人」として記憶された。摩文仁の自決地には「黎明之塔」(陸軍第32軍司令官牛島満・参謀長長勇終焉之地碑)が建立されている。
青山霊園に眠る
牛島満の墓は、青山霊園 1種イ1号25側。同じ「1種イ1号」の区画には、明治の元勲・黒田清隆(9側)、初代文部大臣・森有礼(12側)、自由民権思想家・中江兆民、真珠王・御木本幸吉、幕府海軍の沢太郎左衛門など、明治国家を作った多彩な人物が眠る。明治の元勲たちと、その明治国家の最終局面で散った昭和の軍人が、同じ区画の地形に並ぶ配置となっている。
沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園内には牛島・長両名の終焉地を示す「黎明之塔」が建ち、毎年 6 月 23 日(沖縄県の慰霊の日)には鎮魂の儀が行われる。郷里・鹿児島市加治屋町にも牛島の生誕地碑がある。




