古在 由直
こざい よしなお
Kozai Yoshinao
足尾鉱毒事件で被害農民の依頼により銅を鉱毒原因と科学的に特定した農芸化学者。東京帝大第10代総長として関東大震災後の大学復興を主導。
足尾鉱毒の原因を科学で突き止めた男
古在由直は、明治・大正の農芸化学者で、足尾鉱毒事件の鉱毒原因を科学的に特定した人物として近代日本社会史に名を残す。明治 25 年(1892 年)、被害農民の依頼を受けて鉱毒成分の分析を行い、原因物質が銅(銅イオン)であることを学術論文として発表。田中正造の議会闘争を支える決定的な科学的根拠を提供した。
東京帝国大学農学部教授・農学部長を経て、大正 9 年(1920 年)から昭和 3 年(1928 年)まで、第 10 代総長として東京帝国大学を率いた。関東大震災(1923 年 9 月)で本郷キャンパスのほぼ全てを失った大学を、私財を投じてまで再建した「大学復興の総長」である。
京都から駒場農学校、そしてドイツへ
元治元年(1864 年)1 月 28 日、京都市中京区に生まれる。父・古在由能は儒学者で、京都の漢学的伝統の中で育った。
明治 11 年(1878 年)、駒場農学校(後の東京帝国大学農学部)に入学。当時の駒場農学校はお雇い外国人として招かれたドイツ人化学者 オスカル・ケルネルが農芸化学を教えており、古在はその直弟子として土壌・肥料・植物栄養学の最前線を吸収した。
明治 17 年(1884 年)卒業後、駒場農学校・東京農林学校の助教授・教授を歴任。明治 28 年(1895 年)から 3 年間ドイツに留学し、ハレ大学で農芸化学を深めた。
明治 25 年「足尾銅山鉱毒分析報告」
明治 23 年(1890 年)、栃木県渡良瀬川流域で田畑が壊滅的な被害を受ける異変が起きていた。原因不明のまま被害は拡大し、田中正造ら被害民が原因究明を求めて立ち上がる。
明治 25 年(1892 年)、古在は同僚の長岡宗好とともに被害農民の依頼を受け、土壌・水・作物の化学分析を行った。結論は明白だった — 足尾銅山から流出する銅(銅イオン)が、灌漑用水を通じて田畑に蓄積し、稲を枯死させているということ。
この「古在・長岡報告」は、足尾鉱毒事件の被害原因を学術的・科学的に特定した最初の論文として、田中正造の帝国議会質問・新聞報道の根拠となった。古河市兵衛側が「鉱毒ではない」と主張するなかで、東京帝国大学の若き化学者が科学の側から被害民を支えたことの意味は大きい。
「公害問題に科学者が当事者として関与した日本最初期の事例」 — 古在由直の名は、社会派化学者として明治日本の知識人史にも刻まれている。
東京帝大第 10 代総長 — 関東大震災と大学復興
大正 9 年(1920 年)12 月、古在は東京帝国大学第 10 代総長に就任した。在任期間は 8 年に及び、大学自治・学問の自由をめぐる時代の風波の中で職務に当たった。
最大の試練は大正 12 年(1923 年)9 月 1 日の関東大震災である。本郷キャンパスは火災で図書館・医学部・工学部の主要建物のほぼ全てを失った。蔵書 76 万冊が灰となり、医学標本・工学実験設備も壊滅した。
古在は震災直後から国内外に支援を呼びかけ、ロックフェラー財団から多額の寄付を獲得し、図書館再建・キャンパス再整備を主導した。安田講堂・総合図書館・工学部本館など、現在の東京大学本郷キャンパスの骨格はこの時期に再建されたものである。
また、大正・昭和初期にワシントン D.C. に贈られた桜のうち、3,000 本の育成・選抜を指揮したことでも知られる。日米友好の象徴となったポトマック河畔の桜は、東京帝国大学農学部古在総長の手を経て海を渡った。
自由民権の家、社会派妻 清水紫琴
古在の妻 清水紫琴(本名・古在豊)は明治を代表する女性ジャーナリスト・小説家で、自由民権運動・婦人解放運動に身を投じた。古在家は明治知識人の中でも社会派の家風が際立っていた。
次男・古在由重は哲学者・マルクス主義思想家として戦前から戦後にかけて活躍し、嫡孫・古在由秀は東京天文台長・国立天文台長を務めた天文学者となった。古在家は学問と社会参加を両輪とした明治・昭和の知的家系として、近代日本に影響を残している。
男爵に叙され、東京で逝去
大正 14 年(1925 年)、男爵に叙される。昭和 3 年(1928 年)、東京帝国大学総長を退任。退任後は帝国学士院会員として晩年も学界に貢献した。
昭和 9 年(1934 年)6 月 18 日、東京で逝去。享年 70。
青山霊園に眠る
古在由直の墓は、青山霊園 1種ロ40号5番。同じ東京帝国大学総長を務めた 山川健次郎、後継の総長 長与又郎 も青山霊園に眠っており、明治・大正の帝国大学を率いた知識人たちが、同じ霊園で静かに眠っている。



