山川 健次郎 (1854-1931)の肖像
山川 健次郎の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

山川 健次郎

やまかわ けんじろう

Yamakawa Kenjiro

会津白虎隊の生き残りからイェール大学を経て日本人初の物理学博士に登った教育者。東大総長を 11 年 11 か月務め、歴代最長記録を残した。

生没年
出身地
陸奥国会津郡若松城下(現・福島県会津若松市)
死没地
東京府東京市豊島区池袋
時代
明治・昭和
役職
東京帝国大学総長
区画
1種ロ18号5側
タグ
会津藩 / 白虎隊 / 物理学 / 東大総長 / 帝国大学

白虎隊の生き残りから日本人初の物理学博士へ

山川健次郎は、会津藩士の家に生まれ、戊辰戦争で白虎隊として鶴ヶ城に籠もり、敗戦後は朝敵の汚名を背負ったまま米国に渡り、イェール大学シェフィールド理科学校で学位を取得して帰国した。日本人初の物理学教授・初の物理学博士として東京大学に立ち、その後 30 年以上にわたって東京帝大の中心であり続けた人物である。

東京帝国大学総長を二度(明治 34-38 年、大正 2-9 年)、合計 11 年 11 か月務めた。これは歴代最長記録で、現在に至るまで破られていない。さらに九州帝国大学初代総長(明治 44-大正 2 年)、京都帝国大学総長(大正 3-4 年)と、明治末から大正期の帝国大学制度を実質的に作り上げた教育行政家だった。

晩年は『会津戊辰戦史』(没後昭和 7 年刊)を執筆し、新政府軍を「西軍」、旧幕府軍を「東軍」と呼ぶ独自の表記を貫いた。「賊軍」「官軍」という勝者の用語を最後まで拒否し、会津人の誇りを学術書の形で残した — 物理学者であると同時に、最後まで会津人であり続けた人だった。

鶴ヶ城に籠もった 14 歳 ——白虎隊と籠城戦

嘉永 7 年/安政元年(1854 年)9 月 9 日、陸奥国会津郡若松城下に生まれる。会津藩士・山川重固(かさのり)の三男。兄に山川浩(後の陸軍少将)、姉に山川二葉(女子教育者)、妹に大山捨松(後の大山巌公爵夫人、津田梅子と共に岩倉使節団に同行した最初の女子留学生)を持つ、会津藩の名門家系である。

慶応 4 年(1868 年)8 月、戊辰戦争・会津戦争。健次郎は当時 14 歳、白虎隊士中二番隊に編入され、鶴ヶ城籠城戦に従軍した。白虎隊本隊が飯盛山で集団自刃した(8 月 23 日)時、健次郎は別働隊として城内に詰めており、悲劇から外れた。9 月 22 日、鶴ヶ城開城。健次郎は降伏した藩士団とともに猪苗代で謹慎し、後に越後経由で東京へ脱走した。

会津藩は朝敵とされ、藩士たちは下北半島・斗南藩への厳しい移封を強いられた。健次郎は政府の朝敵処分の網の中、教育の機会を求めて流浪する 10 代後半を送ることになる。

米国留学 — イェール大学シェフィールド理科学校で日本人初の物理学位

明治 4 年(1871 年)、健次郎は明治政府の官費留学生として米国に渡る。朝敵の汚名を背負った会津人が、新政府の留学生として選ばれたことは異例だった。当時の文部少輔・木戸孝允や森有礼らが、会津人を含む全国の俊才を留学に出す制度を作っていた背景がある。

健次郎はイェール大学シェフィールド理科学校(現・イェール大学工学・応用科学部)で物理学を学び、明治 8 年(1875 年)に学位(B.Ph.)を取得した。専攻は物理学。帰国後の明治 12 年(1879 年)、東京大学理学部準教授に就任 — 日本人として初めて物理学を本職とする教授職である。

明治 21 年(1888 年)、東京帝国大学に改組された大学で物理学博士号を取得 — これも日本人初の物理学博士だった。日本の物理学者育成の最初のレールを敷いたのが、健次郎ということになる。

東京帝国大学総長 — 歴代最長 11 年 11 か月

明治 34 年(1901 年)5 月、健次郎は第 8 代東京帝国大学総長に就任(明治 38 年 12 月まで)。日露戦争前後の東大を率いた。一度総長を退いた後、明治 44 年(1911 年)1 月から大正 2 年(1913 年)5 月まで九州帝国大学初代総長を務め、大正 3 年(1914 年)4 月から翌年 6 月まで京都帝国大学総長を兼務した。

その後再び東京帝大に戻り、大正 2 年(1913 年)5 月から大正 9 年(1920 年)9 月まで第 11 代総長を務めた。第 8 代と第 11 代の在任合計 11 年 11 か月は、歴代東大総長で最長記録である。

総長在任中、健次郎は森戸辰男事件(大正 9 年、東大経済学部助教授・森戸辰男の論文が筆禍となった事件)で森戸を擁護し、結果として総長を辞任することになった。学問の自由を守る姿勢が、官学トップの座を退く代償と引き換えになった。

千里眼事件と日露戦争従軍志願 — 山川健次郎の二つの顔

健次郎は近代日本科学の制度設計者であると同時に、独特の硬骨漢としても知られた。

明治 43 年(1910 年)の千里眼事件 — 御船千鶴子・長尾郁子らの「千里眼」と称する超能力実験が新聞で大きく報じられた事件で、東大教授・福来友吉らが超能力を実証する立場を取った。健次郎は早くから「これは到底科学とは認められない」と公然と批判し、後に事件は実証実験の破綻で収束する。日本科学界での「ニセ科学批判」の原点となる発言だった。

日露戦争(明治 37-38 年)時には、当時東大総長だった健次郎が陸軍省に「一兵卒として従軍させろ」と押しかけたという逸話が残る。会津で 14 歳の少年として籠城戦を戦った経験のある健次郎にとって、戦争は学問の対象ではなく、自分の身を投じる対象だった。陸軍は丁重に断ったが、この行動は当時の新聞で「総長閣下の従軍志願」として報じられた。

『会津戊辰戦史』 ——「東軍」「西軍」の表記

晩年の健次郎が最も力を注いだのが、『会津戊辰戦史』の執筆である。会津藩士の家に生まれ、自ら白虎隊士として籠城戦を戦い、戦後 60 年以上にわたって朝敵の汚名と向き合い続けた健次郎が、会津人の視点から戊辰戦争を記述した記念碑的著作である。

この著作の特徴は、新政府軍を「西軍」、旧幕府軍を「東軍」と表記する独自の用語法にある。「官軍」「賊軍」という勝者の用語を全面的に拒否し、東西の地理的呼称で戦争を客観化する手法だった。健次郎は自著の中で「戊辰の戦は、官と賊の戦ではなく、東と西の戦である」と書き、勝者の歴史叙述を学術の力で書き換えた。

『会津戊辰戦史』は健次郎の没後、昭和 7 年(1932 年)に刊行された。戦前期の歴史叙述の中で、敗者の側から戦争を記述した数少ない学術書として、戦後の戊辰戦争研究の出発点となる。

逸話・エピソード

「東軍」「西軍」 ——勝者の用語を拒んだ物理学者

健次郎は、東京帝大物理学者・初の総長・帝国学士院長など近代日本科学界の頂点を歩みながら、最後まで「自分は朝敵会津人である」というアイデンティティを手放さなかった。『会津戊辰戦史』で「東軍」「西軍」という用語を採用したのは、その姿勢の集大成だった。

新政府軍を「西軍」と呼ぶ表記は、当時の歴史叙述から見て大胆だった。明治以来「官軍」と呼ばれてきたものを、地理的中立的な「西軍」に書き換えたのは、勝者の歴史叙述の権威を、敗者の学術的反論で相対化する試みだった。戦後の戊辰戦争研究では、この用語法が継承され、現在の学術書でも「東軍」「西軍」表記を採る論者が少なくない。

会津人の誇りを学術書の形で残した — 健次郎の生涯を貫いた一筋の意志がここにあった。

カレーライスを初めて食べた日本人

健次郎は米国留学中に、日本人として最初期にカレーライスを食べた人物の一人として知られる。ただし「食べた」というより「食べようとして失敗した」エピソードである。

イェール大学留学中、食堂で出されたカレーライスを目にした健次郎は、見慣れない茶色の液体を訝しみ、結局米だけを食べてカレーソースを残したと伝わる。「日本人で初めてカレーライスを目の前にし、食べることを拒否した最初の人物」という珍記録になった。

後年、健次郎は東大総長として若い学生たちに「最新の科学を学ぶことを恐れるな」と説いたが、自身は若い頃に未知の食物を恐れた経験を率直に語って学生を笑わせていたと伝わる。

千里眼事件への批判 ——「実証なき科学は科学にあらず」

明治 43 年(1910 年)、御船千鶴子・長尾郁子らの「千里眼」(超能力で透視する能力)が新聞で大々的に報じられた。東京帝大の福来友吉助教授が超能力を実証する立場で実験を主導し、当時の学術界・新聞界を二分する論争となった。

健次郎は早い段階から「千里眼は科学的に実証されていない」「実証なき主張を科学と呼ぶことはできない」と公然と批判した。物理学者として培ってきた実証主義の立場から、流行に流される学術界を厳しく戒めた発言だった。

事件は実証実験で千里眼が再現できないことが明らかになり、収束する。福来友吉助教授は東大を追われ、独自の超能力研究を続けた。健次郎の早期の批判は、後に「日本科学界における疑似科学批判の原点」として記憶されることになる。

青山霊園に眠る

山川健次郎の墓は青山霊園にある。同じ青山霊園には、東大医学部と並ぶ衛生学の系譜を歩んだ後藤新平、伝染病研究所の創設者・北里柴三郎、海軍軍医として脚気を制した高木兼寛 — 明治期日本の医学・科学を作り上げた同時代人が集まっている。

会津藩士の家に生まれた朝敵の少年が、米国留学を経て日本科学界の頂点に立ち、最後は会津の戦記を学術の形で残した一生 ——その終着点が、この霊園にある。

墓参り写真

  • 墓所

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墓所の位置

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参考資料

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