長与 又郎
ながよ またろう
Nagayo Mataro
「癌研究の世界的権威」と称された病理学者。東京帝国大学第12代総長(1934-1938)、日本癌学会創立者(1941)。父は長与専斎、弟は白樺派作家の長与善郎。
長与家四代目、東京帝大第 12 代総長
長与又郎は、明治・大正・昭和を生きた病理学者である。父は「衛生」の語を作り日本の医療制度を設計した 長与専斎、曽祖父は大村藩の蘭方医 長与俊達、弟は白樺派の小説家 長与善郎 — 江戸末期から昭和まで医学・文化を作り続けた長与家の四代目に当たる。
東京帝国大学医学部長を経て、昭和 9 年(1934 年)から 13 年(1938 年)まで、第 12 代総長として帝国大学を率いた。在任期間中、河合栄治郎事件・平賀粛学など大学自治の試練と向き合い、最終的に自治を守るために自ら辞任の道を選んだ。
専門は病理学、特に癌研究。「日本における近代腫瘍学の確立者」として、昭和 16 年(1941 年)に日本癌学会を創立した。
長与家の医学系譜を継ぐ
明治 11 年(1878 年)4 月 6 日、東京の長与専斎邸に三男として生まれる。長男・長与稱吉は内科医として男爵を継ぎ、弟・長与善郎 は白樺派の文学者として志賀直哉らと並ぶ存在となった。三男の又郎は医学の道を選び、家業としての医学を継承した。
東京帝国大学医科大学を卒業後、病理学を専攻。明治 35 年(1902 年)、24 歳で帝国大学助教授に就任する。当時の日本病理学は黎明期で、ドイツ留学を経て本格的な研究体制が築かれつつあった。又郎もまた明治末から大正初期にかけてドイツ・オーストリアに留学し、ベルリン大学・ウィーン大学の病理学の最前線で学んだ。
結核・癌 — 二大死因への挑戦
帰国後、又郎は東京帝大医学部教授として病理学講座を担う。当時の日本人の二大死因は結核と癌であり、又郎の研究はこの二つを軸に展開した。
結核では、肺結核の病理組織学的研究を進める一方で、父専斎が設立に関わった結核予防会の中核を担い、衛生・公衆衛生の側面でも結核との戦いを推進した。
癌では、人体および実験動物の悪性腫瘍研究を体系化し、当時まだ「治療法のない病」とされていた癌を、近代医学の対象として確立する基盤を作った。又郎の業績により、後年「癌研究の世界的権威」と評されることになる。
第 12 代東京帝大総長 — 大学自治の試練
昭和 6 年(1931 年)に東京帝大医学部長、昭和 9 年(1934 年)12 月、第 12 代総長に就任した。
在任中、大学自治をめぐる事件が相次いだ。昭和 11 年(1936 年)の天皇機関説事件の波及、昭和 13 年(1938 年)の河合栄治郎事件 — 経済学部教授 河合栄治郎の著書が発禁とされ、文部省・軍部からの圧力で河合の追放が求められた事件 — は、又郎の大学自治擁護の姿勢を試した。
又郎は河合の処分に最後まで抵抗し、文部省との折衝で時間を稼いだが、政治情勢の悪化のなかで自治を守りきることは困難となった。昭和 13 年(1938 年)12 月 28 日、又郎は総長を辞任。「大学の自治を守るために身を引く」 — 戦時下の帝国大学を率いた知識人としての最後の選択だった。
日本癌学会創立、男爵叙爵、急逝
総長退任後、又郎は本来の研究領域である癌研究に戻り、財団法人癌研究会を率いて昭和初期の癌研究の中心となった。
昭和 16 年(1941 年)4 月、日本癌学会を創立し初代会頭となる。日本における癌研究の組織化・体系化を生涯の最終事業として進めていた。
同年 8 月 15 日、男爵に叙爵される。しかしその翌日、昭和 16 年(1941 年)8 月 16 日、又郎は東京で急逝した。享年 63。叙爵の翌日の死は、まるで生涯の業績への国家からの最後の応答を受け取って力尽きたかのような死だった。
青山霊園に眠る — 長与家四代の墓所
長与又郎の墓は、青山霊園 1種イ2号2-6番。同じ 1種イ2号区画には、父 長与専斎 と弟 長与善郎 も眠っており、明治・大正・昭和の長与家の医学・文化の三代が一つの区画に並んでいる。
曽祖父の大村藩医 長与俊達 は故郷の長崎県大村市に眠るが、青山霊園 1種イ2号区画は事実上の「長与家近代墓所」となっている。
「衛生」の語を作った父、「癌研究」を確立した又郎、白樺派の文学を残した弟 — 三人の墓が同じ区画にあることは、近代日本の知の継承を空間として体現している。





