長岡 半太郎 (1865-1950)の肖像
長岡 半太郎の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

長岡 半太郎

ながおか はんたろう

Nagaoka Hantaro

土星型原子モデルを提唱し、ラザフォードの原子核モデルに先駆けた物理学者。第1回文化勲章受章者で、85歳の死の当日まで地球物理学の本を読んでいた。

生没年
出身地
肥前国大村藩(現・長崎県大村市)
死没地
東京府東京市文京区西片町
時代
明治・昭和
役職
物理学者
タグ
物理学 / 原子モデル / 第1回文化勲章 / 大村藩 / 大阪帝国大学

土星型原子モデル ——ラザフォードに先駆けた日本の物理学者

長岡半太郎は、明治 37 年(1904 年)に「土星型原子モデル」を発表し、当時の世界物理学界に日本の存在を知らしめた理論物理学者である。原子の中心に正電荷を帯びた核があり、その周りを負電荷を帯びた電子がリング状に回るという原子像は、7 年後の明治 44 年(1911 年)にアーネスト・ラザフォードが原子核を発見し、その後ニールス・ボーアの原子模型(大正 2 年/1913 年)へと発展する潮流の先駆となった。

東京帝大物理学科教授(明治 29 年-大正 15 年)を 30 年務め、大阪帝国大学初代総長(昭和 6-9 年)、帝国学士院長(昭和 14-23 年)、日本学術振興会理事長(昭和 14-22 年)と、戦前から戦後にかけて日本科学界の中心であり続けた。昭和 12 年(1937 年)、第 1 回文化勲章を受章。

長岡係数(有限長ソレノイドのインダクタンス計算式、明治 42 年発表)など電気工学分野でも基礎的業績を残した。85 歳で世を去ったその日も、地球物理学の本を広げて研究を続けていたという — 死の瞬間まで物理学者であり続けた稀有な学者だった。

大村藩士の一人息子、東大物理学科へ

慶応元年(1865 年)6 月、肥前国大村藩(現・長崎県大村市)に生まれる。大村藩士・長岡治三郎の一人息子。維新時 4 歳。明治新政府の学制改革で、地方藩士の子としては早い時期に高等教育の機会を得た世代だった。

東京大学理学部物理学科に入学。明治 20 年(1887 年)卒業、大学院進学。指導教授は山川健次郎(日本人初の物理学博士、後の東大総長)と田中舘愛橘(地球物理学者)。山川・田中舘の両系譜から物理学と地球物理学を学んだことが、後の長岡の幅広い研究領域の原点となる。

ドイツ留学 — ボルツマンの下で学ぶ

明治 26 年(1893 年)から明治 29 年(1896 年)まで、ドイツ帝国に官費留学。オーストリアのウィーン大学でルートヴィッヒ・ボルツマン(熱力学・統計力学の祖)に師事した。

ボルツマンは、原子論と統計力学を確立した 19 世紀末を代表する理論物理学者である。長岡はボルツマンから「物質の根本構造を理論的に追究する」発想を学び、帰国後の土星型原子モデルへとつながる思考の枠組みを獲得した。

明治 29 年(1896 年)帰国、東京帝大物理学科教授就任(31 歳)。以後 30 年間、東大物理学科の中心として日本の物理学界を作り上げる。

土星型原子モデル(明治 37 年 / 1904 年)

明治 37 年(1904 年)、長岡は『Phil. Mag.』誌に “Kinetics of a system of particles illustrating the line and the band spectrum and the phenomena of radioactivity”(『直線スペクトル及び帯スペクトルと放射能の現象を示す粒子系の運動学』)を発表した。

この論文で長岡は、原子を「中心に正電荷を帯びた重い核があり、その周りを負電荷を帯びた多数の電子がリング状に回っている」構造として記述した。土星の本体と環(リング)の関係に似ているため、「土星型原子モデル」と呼ばれることになる。

当時、西洋物理学界では J.J.トムソンが提唱した「プラム・プディング・モデル」(電子が正電荷の塊の中に散らばっている)が主流だった。長岡の土星型モデルは、正電荷が中心に集中するという点で、後にラザフォード(明治 44 年)が確立する原子核モデルの先駆となった。

ただし長岡のモデルは数学的に不安定(電子が中心核に引き寄せられて衝突する)という弱点があり、当時の物理学界では十分な評価を得られなかった。完全な原子核モデルが世界の標準となるのは、ラザフォード→ボーアへの 1910 年代の進展を待つことになる。それでも、原子の中心に重い正電荷核がある、という発想を最初に提示したのが日本人物理学者だったことは、近代日本科学史の誇りである。

長岡係数 — 電気工学への寄与

明治 42 年(1909 年)5 月 6 日、長岡は『東京数学物理学会記事』に「有限長ソレノイドのインダクタンス計算式」を発表した。理論物理学から離れ、電気工学の実用に直結する計算公式として、世界の電気工学界で「Nagaoka coefficient(長岡係数)」として標準的に使用されることになる。

ケンブリッジ大学は長岡の電気工学への貢献に対し、名誉理学博士号を授与した。理論物理学者でありながら実用工学にも基礎的業績を残した、長岡の学問の幅を象徴する受章である。

大阪帝国大学初代総長、帝国学士院長

昭和 6 年(1931 年)、大阪帝国大学創設。初代総長に長岡が就任(昭和 9 年まで)。長岡は東京帝大物理学科の伝統を関西に植える役割を果たした。大阪帝大物理学科は、湯川秀樹(後のノーベル物理学賞受賞者、長岡の孫弟子)、菊池正士、岡田要らを輩出し、戦後日本物理学の関西側の柱となる。

昭和 12 年(1937 年)、第 1 回文化勲章受章。当時 72 歳。同時受章者は本多光太郎(東北帝大、長岡の弟子)・木村栄(緯度観測所長)・佐佐木信綱(歌人)・幸田露伴(作家)ら 9 名。長岡が日本科学界の代表として文化勲章第 1 回受章に名を連ねたことは、当時の科学界の階層構造を示している。

昭和 14 年(1939 年)、帝国学士院長に就任(昭和 23 年まで)。同時期に日本学術振興会理事長(昭和 14-22 年)も務め、戦時から戦後への学術行政の連続性を支えた。

12 月 11 日、地球物理学の本を読みながら

昭和 25 年(1950 年)12 月 11 日、長岡は東京・西片町の自邸で脳出血により死去。享年 85。

死の当日も、地球物理学の本を広げて研究を続けていたと伝わる。85 歳まで物理学の最前線への関心を失わず、死の瞬間まで学者として机に向かっていた最期だった。本人の意思により葬儀は神式仏式によらず、12 月 16 日に執行された。

戦後の日本科学界は、長岡の死の翌々年(昭和 27 年/1952 年)に湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞し、長岡が育てた物理学の伝統が世界に認められる時代を迎える。長岡が見届けることのできなかった日本物理学のノーベル賞時代は、長岡の弟子・孫弟子たちが切り開いていった。

逸話・エピソード

「日本人にも理論物理学はできる」 ——土星型モデルの真意

土星型原子モデル発表(明治 37 年)の当時、長岡はドイツ留学から帰国してまだ 8 年の 39 歳だった。西洋物理学界の中心(英・独・仏)から見ると、日本はまだ「物理学を輸入する側」とみなされていた時代である。

長岡が土星型モデルを発表した動機の一つは、「日本人でも、最先端の理論物理学に貢献できることを示す」というナショナルな自負だった。論文は英文で書かれ、世界の主要物理学誌『Philosophical Magazine』に投稿された。当時の日本人物理学者として、世界の最先端と直接対話する研究を発表することは異例だった。

論文発表後の世界物理学界の反応は冷たかった。「日本人の理論」「数学的に不安定」 — 当時の評価はそのようなものだった。しかしラザフォードが原子核を発見した時(明治 44 年)、世界の物理学者は長岡が 7 年前に提示していた構図を改めて思い出すことになる。長岡の生前、欧米の物理学史書では「原子核モデルの先駆者の一人」として長岡の名が記される標準が定着した。

弟子・本多光太郎の文化勲章同時受章

第 1 回文化勲章(昭和 12 年)で、長岡半太郎と本多光太郎(KS 鋼の発明者、東北帝大金属材料研究所創設者)が同時受章した。本多は長岡の弟子で、東大物理学科で長岡に学んだ後、ドイツ留学を経て金属材料学の世界的権威となった人物である。

師弟が同じ年の第 1 回文化勲章に並んだことは、近代日本科学史の系譜の象徴的場面となった。受章式の控え室で本多が「先生のおかげです」と挨拶すると、長岡は「お前の鋼鉄の方が世間に役立っている。私の原子理論より、お前の方が偉い」と返したと伝わる。

長岡の弟子には、本多のほか日下部四郎太(地震学)、寺田寅彦(地球物理学・文学者)、仁科芳雄(原子核物理学・理化学研究所サイクロトロン)、湯川秀樹(中間子論・ノーベル賞)らが連なる。長岡の系譜は、戦後日本科学のノーベル賞時代を準備した。

「死の当日も地球物理学の本を読んでいた」

昭和 25 年(1950 年)12 月 11 日、85 歳の長岡が没した日のことを、家族はこう証言した。「父はその日も書斎で地球物理学の本を広げ、ノートに何か書き付けていた」。

85 歳で自分の専門外(本職は理論物理学・原子物理学)である地球物理学の本を読み続けていた事実は、長岡の知的好奇心の終わりなき姿を示している。師の田中舘愛橘から学んだ地球物理学への関心を、85 歳まで保ち続けた長岡の学者としての姿が、家族の証言から立ち現れる。

「学問に終わりはない」 — 長岡が口癖のように言っていたとされる言葉が、その最期の机上に体現されていた。

青山霊園に眠る

長岡半太郎の墓は青山霊園にある。同じ青山霊園には、東大物理学の師・山川健次郎、同時代の自然科学者・北里柴三郎、海軍軍医の高木兼寛 — 明治期日本の科学を作り上げた世代が眠っている。

土星型原子モデルを発表し、第 1 回文化勲章を受け、85 歳の死の当日まで本を読み続けた物理学者の終着点は、近代日本科学の祖たちの傍らにある。

墓参り写真

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