黒田 清隆 (1840-1900)の肖像
黒田 清隆の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

黒田 清隆

くろだ きよたか

Kuroda Kiyotaka

第2代内閣総理大臣。戊辰戦争で五稜郭を攻略、北海道開拓使長官として開拓事業を主導した薩摩出身の政治家。

生没年
出身地
薩摩国鹿児島城下(現・鹿児島県鹿児島市)
死没地
東京
時代
江戸・明治
役職
第2代内閣総理大臣
爵位
伯爵
区画
1種イ1号9側
タグ
内閣総理大臣 / 北海道開拓使 / 戊辰戦争 / 薩摩藩

北海道を作り、憲法発布を見た首相

黒田清隆は、第 2 代内閣総理大臣。戊辰戦争で五稜郭の旧幕府軍を降伏に追い込み、北海道開拓使長官として北海道近代化の基礎を築き、大日本帝国憲法発布(明治 22 年/1889 年 2 月 11 日)を首相として迎えた、明治前期の薩摩出身政治家である。

その業績の根幹は北海道にある。明治 3 年(1870 年)の開拓使次官就任から長官時代を含む約 12 年間、黒田は「開拓使十年計画」(10 年計画で 1000 万円を投じる大事業)を立案・実行した。米国のホーレス・ケプロンを開拓使顧問に招聘し、農業・畜産・鉱業の調査と導入、屯田兵制度の整備、そして札幌農学校(現・北海道大学)の創設(1876 年)を進めた。クラーク博士を札幌に呼んだのは黒田である。「Boys, be ambitious」(青年よ大志を抱け)の言葉が日本史に刻まれた背景には、黒田の人事判断があった。

しかし明治 14 年(1881 年)の開拓使官有物払下げ事件 — 開拓使保有の財産を旧薩摩閥の政商・五代友厚らに格安で払い下げようとした政策 — が世論の激しい批判を浴び、明治十四年の政変(国会開設の詔・大隈重信の追放)の引き金となった。黒田は明治政府最大の汚職スキャンダルの主役となり、政治生命に大きな傷を負った。

それでも明治 21 年(1888 年)、伊藤博文の後を受けて第 2 代内閣総理大臣に就任。在任中の明治 22 年(1889 年)2 月 11 日、大日本帝国憲法発布の瞬間に首相の座にあった。歴史教科書に「憲法発布時の首相は黒田清隆」と書かれる、その黒田である。直後の不平等条約改正交渉問題で内閣は同年 10 月に総辞職した。

五稜郭、敵将の助命嘆願

天保 11 年(1840 年)、薩摩国鹿児島城下に薩摩藩士の長男として生まれる。薩英戦争・第二次長州征伐に従軍した後、戊辰戦争では北越戦線・函館戦線で活躍した。

明治 2 年(1869 年)、函館・五稜郭に立て籠もった榎本武揚率いる旧幕府軍 — 「蝦夷共和国」を名乗った最後の幕府軍 — に対し、黒田は政府軍参謀として攻略を指揮した。5 月 18 日、榎本が降伏。黒田はここで前例のない行動に出る。敵将・榎本武揚の助命を強く嘆願したのだ。

幕府の海軍副総裁にして頑強な抵抗を続けた榎本を、新政府の常識では処刑するほかなかった。だが黒田は西郷隆盛・大久保利通に直訴し、「榎本ほどの人物を殺すのは国家の損失だ」と説得を続けた。明治 5 年(1872 年)、榎本は特赦され、後に駐ロシア公使・逓信大臣・農商務大臣などを歴任して新政府に貢献する。黒田の助命嘆願がなければ、明治日本は榎本武揚という人材を失っていた。

北海道、ケプロンとクラーク

明治 3 年(1870 年)、北海道開拓使次官に就任(後に長官)。開拓使は当時の日本政府でも最も新しい挑戦的事業で、ロシアの南下圧力を受ける北辺の地を、農業・産業・軍事の三面で開発する必要があった。

黒田は米国農務省長官だったホーレス・ケプロンを破格の高給で開拓使顧問に招聘(1871 年)。ケプロンは米国式農業・畜産技術の導入、道路・港湾の建設、農具・種子の輸入を計画化した。さらに札幌農学校の設立に際しては、マサチューセッツ農科大学長ウィリアム・S・クラークを招聘(1876 年)。クラークが残した「Boys, be ambitious」の精神は、北海道大学の建学精神として今も生きている。

屯田兵制度(土地を給して移住兵を入植させる)、ビール醸造(現・サッポロビールの源流)、鉱山開発、鉄道敷設 — 現在の北海道のインフラと産業構造のほとんどが、この時期に基礎づくられた。

開拓使官有物払下げ事件

明治 14 年(1881 年)、開拓使が保有していた船舶・倉庫・農場・鉱山などの官有物 — 約 1400 万円を投じて整備した資産を、評価額 38 万 7 千円・無利子 30 年賦という破格条件で、旧薩摩閥の政商・五代友厚らに払い下げようとする計画が報道された。世論は激昂し、自由民権運動と結びついて全国規模の政府批判に拡大した。

事件の決着として、政府は払い下げを中止する一方、世論への国家側の譲歩として「国会開設の詔」(1890 年に国会を開設すると約束)を発し、大隈重信を「政府機密漏洩」として追放した(明治十四年の政変)。黒田は明治政府の最大スキャンダルの中心人物となり、開拓使長官を退任した。

第 2 代首相、憲法発布、そして総辞職

明治 21 年(1888 年)、伊藤博文に代わって第 2 代内閣総理大臣に就任。明治 22 年(1889 年)2 月 11 日、紀元節の日に大日本帝国憲法が発布された。同日、初代文部大臣・森有礼が国粋主義者の凶刃に倒れた事件(本霊園に眠るもう一人の首相経験者)も、この内閣の出来事である。

直後の不平等条約改正交渉では、外相・大隈重信が日英・日米・日独条約調印を進めようとしたが、外国人裁判官の任用を含む内容に世論が激しく反発。同年 10 月、大隈が右翼に襲われて片足を失い、内閣は総辞職した。

その後は枢密顧問官・元老として影響力を保ち、首班奏薦に関与した。明治 33 年(1900 年)8 月 23 日に脳出血で死去。享年 59。

血族の著名人

戊辰戦争で黒田が助命を嘆願した榎本武揚と、後に黒田家は姻戚で結ばれた。歴史の因縁を体現する家系である。

戊辰戦争の敵味方が同じ青山霊園(榎本武揚も青山霊園に眠る)で隣り合い、家系も結ばれたという、明治国家の度量を象徴する関係。

逸話・エピソード

妻・清の急死 — 「酔って斬った」の風説

明治 11 年(1878 年)3 月、黒田の先妻・清が急死した。死因は公式には病死とされたが、当時の東京では「酒乱の黒田が酔った勢いで日本刀で斬殺した」との風説が広く流れ、新聞でも仄めかすような記事が出た。大警視・川路利良が黒田家を訪れて棺を確認し「斬殺の事実なし」との報告書を提出して事態を収拾したと伝わるが、川路自身が薩摩同郷ということもあって疑念は消えなかった。福澤諭吉も日記に「世評では斬殺と言うが、政府は揉み消したらしい」と書き残している。明治政府最大級のスキャンダルの一つで、黒田の人物像に深い影を落とし続けた。

酒癖 — 政府高官の前で抜刀する逸話

黒田の酒癖の悪さは政府内でも有名で、酩酊して刀を抜く、議論で激高して机を叩き割るなどの逸話が複数残る。それでも維新の元勲・薩摩閥の重鎮として地位を保ち続けたのは、北海道開拓と五稜郭での軍功という揺るがぬ実績ゆえだった。同郷の西郷従道・大山巌らは黒田の酒席には極力同席を避けたとも伝わる。

砲を撃って榎本を呼び出す — 五稜郭の和睦工作

五稜郭の戦いの最終局面、黒田は榎本武揚に投降を勧めるため、敵将を「酒席に招く」前代未聞の挙に出た。明治 2 年(1869 年)4 月、黒田は政府軍の陣に榎本を呼び寄せ、酒と肴で歓待しながら和議を打診したと伝わる。榎本はその場で投降には応じなかったが、黒田の「敵将でも傑物は遇するに礼を以てす」の姿勢に深く打たれた。降伏後、黒田が頭を丸めて西郷・大久保に榎本助命を直訴したのは、この一夜の交わりが原点である。

青山霊園に眠る

黒田清隆の墓は、青山霊園 1種イ1号9側。葬儀の葬儀委員長は榎本武揚が務めた — 五稜郭で敵将として向き合い、黒田が助命を嘆願して救ったあの榎本が、30 年後に黒田の葬儀を取り仕切ったのである。戊辰戦争の敵味方が、ここで完全に結ばれた。

同じ「1種イ1号」の区画には、初代文部大臣・森有礼、自由民権運動家・中江兆民、実業家・御木本幸吉といった多彩な人物が眠る。明治国家草創期の薩摩人脈と、黒田が向き合った時代の幅広さを、この区画はそのまま体現している。

墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

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