御木本 幸吉

みきもと こうきち(Mikimoto Kokichi)

御木本 幸吉の肖像
御木本 幸吉の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
生没年1858-03-10 〜 1954-09-21
時代明治・大正
分野実業家
墓所区画1種イ1号11側
タグ真珠王 / ミキモト真珠 / 養殖 / 三重県鳥羽

「真珠王」と呼ばれた男

御木本幸吉は、世界で初めて真珠の養殖に成功した実業家である。「真珠王」(The Pearl King)と呼ばれ、伊勢志摩の小さなうどん屋の息子から、ロンドン・パリ・ニューヨークに支店を持つ世界的宝飾ブランド「ミキモト」を一代で築き上げた。

明治 26 年(1893 年)7 月 11 日、三重県の英虞湾(あごわん)で世界初の半円真珠の養殖に成功。続いて明治 38 年(1905 年)、完全な球形の真円真珠の養殖技術を確立した。それまで真珠は「海女の運で天然に採れるもの」だった。御木本の発明は、真珠を「畑で米を作るように人の手で育てるもの」に変えた。

エジソンに「真珠とダイヤモンドだけは私のラボでも作れない」と言わせた逸話が伝わるほど、当時の発明界に強烈なインパクトを与えた業績である(エジソンの発言の細部には諸説あるが、両者の会見と類似発言があったことは複数の記録に残る)。

1937 年のパリ万国博覧会、1939 年のニューヨーク万国博覧会で「ミキモトパール」のブランドを国際的に確立。第二次大戦中も生産を続け、戦後は GHQ 関係者への販売を通じて世界市場に再進出した。日本発の世界ブランドとしては最も初期の成功例の一つであり、現代の高級時計・ファッション・宝飾界で日本ブランドが対等に戦える状況の起点となった存在である。

そしてもう一つ忘れてはならないのが、御木本の資源保護思想である。「乱獲で天然真珠を絶滅させてはならない」 — 養殖の発明はそもそも、英虞湾で進む真珠資源の枯渇を救う手段として始まった。明治期に「持続可能な利用」という思想を持って事業を起こした人物は、日本では極めて稀である。

昭和 29 年(1954 年)9 月 21 日、郷里・鳥羽の自宅で死去。享年 96。長寿を全うした、明治・大正・昭和を貫く実業家の代表的人生だった。

うどん屋の長男から、真珠養殖の夢へ

安政 5 年(1858 年)、伊勢国志摩郡鳥羽浦(現・三重県鳥羽市)にうどん屋「阿波幸」の長男として生まれる。家業の傍ら、地元・志摩湾で天然真珠の乱獲が進み、海女がもぐっても真珠貝が見つからなくなりつつある現状を、御木本は若い頃から直接見ていた。

「真珠は天然のままでは絶滅する。なんとかして人工的に作る方法はないか」 — この問いが、御木本の生涯のテーマとなった。明治 21 年(1888 年)、英虞湾で真珠養殖事業を開始する。当初は資金もなく、知識もなく、ただ「アコヤ貝に異物を入れれば真珠ができるかもしれない」という民間伝承を頼りに、独力で試行錯誤を始めた。

明治 26 年 7 月 11 日 — 世界で初めて

東京大学教授・箕作佳吉、農商務省技師・西川藤吉(後に御木本の娘婿となり、真円真珠技術の開発者)らの学術的助言を受けながら、御木本は無数の試作を重ねた。アコヤ貝の外套膜に貝殻片を挿入する方法、貝殻片の形・大きさ・挿入位置の最適化 — ほとんどの試作は失敗し、貝は死に、資金は底をつきかけた。

明治 26 年(1893 年)7 月 11 日朝、御木本は英虞湾の養殖筏から引き上げた貝の中に、半円形の真珠が形成されているのを発見する。世界で初めての養殖真珠だった。続いて明治 38 年(1905 年)には、娘婿・西川藤吉らの研究により、完全な球形の真円真珠の養殖技術が確立される。商業化の道が完全に開けた瞬間だった。

銀座、そして世界へ

明治 32 年(1899 年)、東京・銀座に真珠装身具店「御木本真珠店」(現・ミキモト)を開業。明治 39 年(1906 年)にはロンドン支店、続いてパリ・ニューヨーク・上海・ボンベイなどに支店を構えた。1920 年代、欧米のファッションシーンで「ミキモトパール」は、フランス・カルティエやティファニーと並ぶブランドとして認知される。

エジソンとの会見は明治 14 年(1881 年、後年の年とする説もあり)説もあるが、御木本がエジソンを訪ねた事実は記録されており、エジソンが養殖真珠に強い関心を示したことは複数の文献に残る。「真珠とダイヤモンドだけは私のラボでも作れない」というエジソンの言葉は、養殖真珠が天然真珠と科学的に区別できない品質に達していたことを証言する逸話として広く伝わっている。

1937 年(昭和 12 年)のパリ万国博覧会、1939 年(昭和 14 年)のニューヨーク万国博覧会では、「自由の鐘」(米国独立記念の鐘)の真珠製ミニチュアレプリカを出品。世界の注目を集め、ブランドを国際的に決定的なものとした。

第二次大戦と戦後の再起

戦時中、ミキモトは生産規模を縮小しながらも操業を続けた。終戦後、進駐 GHQ 関係者・米兵が日本土産として真珠を買い求め、ミキモトは戦後の対米経済再開の最初期に立ち上がった日本企業の一つとなった。

昭和 29 年(1954 年)9 月 21 日、御木本は郷里・鳥羽の自宅で死去。享年 96。明治・大正・昭和の三時代を貫いて、一つの事業を世界ブランドに育てた経営者の長い人生が、ここで閉じた。

青山霊園に眠る

御木本幸吉の墓は、青山霊園 1種イ1号11側。同じ「1種イ1号」の区画には、初代文部大臣・森有礼、自由民権思想家・中江兆民、戊辰戦争の指揮官・大鳥圭介、薩摩出身の首相・黒田清隆など、明治を作った多様な人物たちが眠る。

郷里の三重県鳥羽市にはミキモト真珠島(御木本真珠養殖場跡地)があり、博物館・記念館・養殖場跡が見学可能。海女による真珠取り出しの実演でも知られる観光地となっている。

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参考資料

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