森 有礼
もり ありのり(Mori Arinori)
| 生没年 | 1847-08-23 〜 1889-02-12 |
|---|---|
| 時代 | 明治 |
| 分野 | 政治家 |
| 墓所区画 | 1種イ1号12側 |
| タグ | 初代文部大臣 / 明六社 / 薩摩藩 / 一橋大学 |
憲法発布の日に倒れた初代文部大臣
森有礼は、初代文部大臣として近代日本の学校制度の骨格を築いた政治家・外交官である。帝国大学令・師範学校令・小学校令・中学校令(いずれも明治 19 年/1886 年)を制定し、現代日本の教育制度の原型を作った。
19 世紀末、日本がアジアで唯一近代国家として自立できた最大の要因は識字率と人材の層の厚さで、その制度的基盤は森有礼が設計したものに発する。戦後改革(1947 年の学校教育法)まで、約 60 年間、森の設計した学校制度が日本の教育を規定し続けた。
明治 6 年(1873 年)、福澤諭吉・西周・西村茂樹・加藤弘之・中村正直・津田真道らとともに明六社を結成し、機関誌『明六雑誌』を通じて啓蒙思想を広めた。同年、福澤らと商法講習所(現・一橋大学)を開設し、日本の高等商業教育の起点を作った。一橋大学が「日本最古のビジネススクール」を名乗れるのは森のおかげである。
そして明治 22 年(1889 年)2 月 11 日、大日本帝国憲法発布式典に向かう途中、伊勢神宮内宮を不敬に扱ったとの噂を信じた国粋主義者・西野文太郎に短刀で襲撃され、翌 12 日に死去。享年 41。日本が立憲国家として正式に成立したまさにその日に、初代文部大臣が凶刃に倒れたという象徴的な死は、近代日本の出発が抱えた精神的緊張をそのまま体現している。
森を語るとき、もう一つ忘れられないのは、明治初期に「日本語廃止論」を提唱したことである。福澤諭吉・馬場辰猪らに「日本語こそ国民教育の基礎」と諭されて引っ込めたが、英語を公用語化して日本を欧米化しようとしたこの議論は、明治日本人の自信と劣等感がせめぎ合った時代を、生々しく伝える歴史的逸話である。
薩摩から世界へ — 18 歳の英国密航
弘化 4 年(1847 年)、薩摩国鹿児島城下に薩摩藩士の五男として生まれる。藩校・造士館で学んだ。
慶応元年(1865 年)、わずか 18 歳で、薩摩藩第一次英国留学生としてイギリスへ密航。日本人が海外渡航を禁じられていた時代、薩摩藩は密かに 15 名の若者を選び、グラバー邸の手引きで英国船に乗せた。森は最年少組の一人だった。
ロンドン、続いてロシア・米国にも渡り、欧米の制度と文化を 5 年間にわたって体験する。明治新政府成立後の明治 3 年(1870 年)、わずか 23 歳で駐米代理公使として米国に派遣されるという破格の人事は、この若き日の海外経験ゆえだった。
「日本語を捨てよ」 — 明六社と日本語廃止論
明治 6 年(1873 年)に帰国した森は、福澤諭吉・西周ら同時代の啓蒙知識人とともに明六社を結成。機関誌『明六雑誌』は当時最も影響力のあった啓蒙メディアで、政治・経済・哲学・教育の幅広いテーマを論じた。
森の主張で最も急進的だったのが、日本語廃止論である。当時の日本語は表記が複雑で、漢字・かな・洋語の混在も整理されておらず、近代国家の運営言語として不適格だ — そう森は判断した。代替案は英語の公用語化だった。米国で見た英語教育の効率性、欧米の知識を直接吸収できる利点を考えれば、合理的な提案ですらあった。
しかし、福澤諭吉・馬場辰猪らは強く反対。「言語は単なる伝達手段ではなく、国民の精神そのもの。日本語を捨てたら日本人は存在しなくなる」 — この議論で森は撤回し、以後は日本語の整備と国民教育の充実に方針を切り替える。「もし森の案が通っていたら今の日本語はなかった」 — そう語られる、近代日本史の分岐点的議論だった。
同じ明治 6 年(1873 年)、商法講習所(現・一橋大学)を福澤諭吉らと開設。日本初の本格的な高等商業教育機関として、後の日本経済を担う人材を育てる土台を作った。
初代文部大臣 — 学校令の制定
駐清公使・駐英公使を歴任した後、明治 18 年(1885 年)、第一次伊藤博文内閣の成立とともに初代文部大臣に就任。文部省は明治 4 年(1871 年)に設置されていたが、文相という閣僚ポスト自体は、伊藤内閣の発足とともに新設されたものだった。
森は翌明治 19 年(1886 年)、立て続けに四つの学校令を発令する。
- 帝国大学令: 東京大学を「帝国大学」と改組、国家エリート養成の頂点とする
- 師範学校令: 各府県に師範学校を設置、教員養成を国家管理下に置く
- 小学校令: 義務教育(尋常小学校 4 年)を確立
- 中学校令: 中等教育の制度化
これらの制度は、戦後の学校教育法(1947 年)が施行されるまで約 60 年間、日本の教育を規定し続けた。「臣民教育・国体重視」の方針は自由主義の立場から批判もあったが、近代国家としての日本の人材基盤を作った事実は揺るがない。
2 月 11 日朝、官邸の玄関
明治 22 年(1889 年)2 月 11 日、紀元節。大日本帝国憲法が発布される日である。森は文部大臣として、宮中の発布式典に参列するため、官邸を出ようとしていた。
午前 10 時頃、官邸玄関で待ち伏せていた西野文太郎(国粋主義者、当時 23 歳)が、隠し持っていた短刀で森の腹部を刺した。西野は森の警護に取り押さえられて死亡した(諸説あり)。森は出血しながら宮中の式典に向かうことを断念し、官邸に運ばれて治療を受けたが、翌 12 日午前に死去した。享年 41。
襲撃の動機は、森が伊勢神宮内宮の奉拝時にステッキで簾を上げて見たという噂(後に事実ではないと判明)を、西野が信じ込んで「国体を侮辱した」と決めつけたものだった。流言が一人の文部大臣の命を奪い、憲法発布という近代国家成立の最大の祝祭の日が、初代文相暗殺の日と重なった。
青山霊園に眠る
森有礼の墓は、青山霊園 1種イ1号12側。同じ「1種イ1号」の区画には、薩摩同郷の元勲・黒田清隆(森を首相として支えた人物)、初代文部大臣に協力した啓蒙思想家・中江兆民、戊辰戦争の旧幕府軍指揮官・大鳥圭介、真珠王・御木本幸吉といった、明治日本の多彩な顔ぶれが眠る。
近代日本の教育制度の設計者・森有礼の墓所は、その制度に育てられた幾世代の日本人が静かに訪れるべき場所である。