大鳥 圭介 (1833-1911)の肖像
大鳥 圭介の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

大鳥 圭介

おおとり けいすけ

Otori Keisuke

旧幕府軍歩兵奉行として戊辰戦争を戦った後、明治政府に出仕し、工部省・外交官・学習院長を歴任した播磨出身の知識人。

生没年
出身地
播磨国赤穂郡細念村(現・兵庫県上郡町岩木)
死没地
東京
時代
江戸・明治
役職
官僚
爵位
男爵
出身校
閑谷学校 / 適塾 / 蕃書調所
区画
1種イ4号28側
タグ
戊辰戦争 / 外交官 / 学習院長 / 蘭学

旧幕府軍の指揮官から、明治国家の知識人へ

大鳥圭介は、戊辰戦争で新選組の土方歳三と共に戦った旧幕府軍の指揮官でありながら、明治新政府に出仕して工部大学校長(後の東京大学工学部)・駐清公使・学習院長を歴任した、明治期日本でも極めて稀な「敗者からの再起」を遂げた人物である。

播磨国(現・兵庫県上郡町)の村医者の家に生まれ、緒方洪庵の適塾で学んで蘭学者・洋式兵学者として頭角を現した。慶応 3 年(1867 年)に幕府陸軍歩兵奉行に就任、フランス式調練を導入して旧幕府軍を近代化した。鳥羽伏見の戦い(1868 年)後の戊辰戦争では、伝習隊と新選組(土方歳三)を率いて宇都宮・会津若松・箱館と転戦。明治 2 年(1869 年)5 月、五稜郭で榎本武揚らと共に降伏した。

普通なら、ここで人生が終わってもおかしくなかった。だが大鳥は 3 年の獄中生活ののち、明治 5 年(1872 年)に特赦で出獄。新政府はその才能を惜しんで彼を取り立て、工部省・大蔵省・元老院・駐清公使・学習院長と、エリート官僚としての第二の人生を歩ませた。

この「敗者を活用する」明治国家の度量の広さは、黒田清隆による榎本武揚の助命嘆願と同根の現象である。福澤諭吉・西周森有礼らが「西洋から学んだ知識人」として明治近代化を担ったのとは別の経路で、大鳥は「幕府の優秀な技術官僚」として近代日本の制度作りに貢献した。明治国家草創期の人材の多様性を象徴する人物の一人である。

明治 44 年(1911 年)6 月 15 日、東京で死去。享年 78。長寿を全うした最期だった。

適塾で蘭学を、幕府でフランス式兵学を

天保 4 年(1833 年)、播磨国赤穂郡細念村(現・兵庫県上郡町岩木)に村医・小林直輔の長男として生まれる。岡山の閑谷学校で漢学を学んだ後、緒方洪庵の適塾で蘭学を修め、さらに江戸で坪井信道に師事。蘭学者として頭角を現し、安政 4 年(1857 年)に大鳥家の養子となった。

幕末は幕府の蕃書調所教授手伝、開成所教授職並などを歴任。慶応 3 年(1867 年)、幕府陸軍歩兵奉行に就任した。フランス陸軍士官団による訓練を導入し、旧幕府軍を当時の世界水準で近代化する役割を担った。「最後の幕府軍は、実は当時最も近代化された日本陸軍だった」 — その近代化を実務面で主導したのが大鳥である。

伝習隊と土方歳三 — 北関東・東北・箱館

慶応 4 年(1868 年)、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が薩長軍に敗北。江戸城開城に反対した大鳥は、自ら指揮する伝習隊と、新選組(土方歳三ら)を率いて江戸を脱出。北関東で抵抗を続けた。

宇都宮城の戦い(同年 4 月)では、伝習隊と新選組が宇都宮城を一時占領するも、政府軍の反撃で奪回された。続いて会津若松防衛戦に参加し、白河・二本松・会津若松と転戦。会津陥落(9 月)後は仙台に逃れ、榎本武揚の旧幕府艦隊と合流して箱館へ向かった。

明治元年(1868 年)冬、五稜郭に旧幕府軍の拠点を築く。「蝦夷共和国」(本人たちはそう自称していないが後世にそう呼ばれる)で、大鳥は陸軍奉行に就任。土方歳三は陸軍奉行並として共に防衛戦を指揮した。

明治 2 年(1869 年)5 月、政府軍の総攻撃を受けて土方歳三が戦死。同月 18 日、大鳥は榎本武揚らとともに降伏した。「敗者」として、東京・名古屋で投獄される。

3 年の獄中、そして再起

明治 2 年から明治 5 年まで、大鳥は獄中にあった。「人格高潔」を理由に処刑は免れたものの、刑期は不確定だった。だが新政府は、旧幕府軍の技術系人材を見捨てるには、明治日本があまりに人材不足だと気づいていた。

明治 5 年(1872 年)1 月、特赦で出獄。直後に工部省に出仕することになる。「敵将を取り立てる」 — 明治国家の度量は、こうした人事配置で具現化された。

工部大学校長から駐清公使、そして学習院長へ

工部省では、近代産業の制度設計に関与。工部大学校(現・東京大学工学部の前身)校長を明治 15 年(1882 年)から明治 18 年(1885 年)まで務め、日本の近代工学教育の制度的基盤を作った。当時の工部大学校はお雇い外国人教師ヘンリー・ダイアー(後にエディンバラ大学工学部初代教授)らによる、世界水準の工学教育機関だった。

明治 22 年(1889 年)、駐清国・駐朝鮮国特命全権公使を兼任。日清戦争前夜(1894 年勃発)の対中・対朝外交の最前線で対応にあたる。明治 26 年(1893 年)、学習院長兼華族女学校長に就任。皇族・華族の子弟教育に関与した。

明治 31 年(1898 年)に枢密顧問官、男爵に叙された。明治 44 年(1911 年)6 月 15 日、東京で死去。享年 78。

血族の著名人

大鳥家は戊辰戦争の敗者の側から再起した家系で、外交・華族界に人材を送り出した。

戊辰戦争で旧幕府軍を率いて新政府軍と戦った大鳥が、明治国家のエスタブリッシュメントに完全に組み込まれ、爵位と外交官の家系を築いた経緯は、明治の度量の広さを示している。

逸話・エピソード

土方歳三と大鳥 — 「軍学者と剣客」の連携

戊辰戦争で旧幕府軍を率いて転戦した大鳥と、新選組副長の土方歳三は、性格も背景も対照的な二人だった。大鳥は適塾出身の蘭学者・洋式兵学者、机上の戦術論に長けた知識人。土方は多摩の農民出身の剣客で、修羅場で部隊を率いる現場叩き上げ。

二人の連携は、宇都宮城攻略・会津若松防衛・箱館戦争と続いた。大鳥が作戦を立て、土方が現場で兵を動かす — 文と武の役割分担が、旧幕府軍の予想外の抵抗力を生んだ。明治 2 年(1869 年)5 月、函館戦争で土方が戦死した報を聞いた大鳥は、五稜郭で長く黙して動かなかったと伝わる。降伏は土方の死から数日後だった。「あの男がいない以上、これ以上戦っても勝てない」 — 大鳥にとって土方の死は、降伏の決定打の一つだった。

敵将を取り立てる — 黒田清隆の度量

五稜郭降伏後、大鳥は東京・名古屋で 3 年の獄中生活を送った。新政府内には「旧幕府軍の指揮官は処刑すべし」の強硬論もあったが、黒田清隆(降伏受け入れ側の薩摩元勲)が「人材を惜しむべし」と助命嘆願に動いた。榎本武揚への助命嘆願と同じ流れで、大鳥もまた救われた。

明治 5 年(1872 年)に特赦で出獄した大鳥が、その後工部大学校長・駐清公使・学習院長と歴任した経歴は、「敵将を取り立てる」明治国家の度量を象徴する。後年、大鳥は黒田に対して生涯感謝の念を持ち続けたと伝わる。

青山霊園に眠る

大鳥圭介の墓は、青山霊園 1種イ4号28側。同じ「1種イ4号」の区画には、勝海舟の父・勝小吉(22側)、明治の警察制度を作った川路利良(1側)、日本銀行初代総裁・吉原重俊(4側)、明治宮中政治の重鎮で皇后宮大夫を務めた香川敬三(25側)など、幕末から明治にかけての多彩な顔ぶれが眠る。

戊辰戦争で旧幕府軍を率いた大鳥が、勝海舟の父や、新政府の警察制度を作った川路利良と同じ区画に眠る配置は、幕末から明治への時代の連続性を地形にそのまま刻んでいる。郷里・兵庫県上郡町には大鳥圭介の生家跡と顕彰碑があり、地元では「上郡の偉人」として今も語り継がれている。

墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

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